鎌倉トレッキング
2020/8/16 永福寺経由の古道を求めて。港南台から円海山経由天園のトレッキングに挑戦
天園(大平山)から鎌倉市街を臨む。やっぱり海街だね。
■港南台から
鎌倉から関内方面までハイキングで歩いていけると知ったのは甘糟りり子のエッセイだった。父母に連れられて鎌倉の自宅から関内まで歩いた幼少の記憶、素晴らしい家庭環境で思わずため息をついた。いったいどの辺りなのかとも思って地図もにらんだ。そして、山川出版で日本史リブレットという大学のゼミの内容を本にしたような楽しいシリーズがあるのだが、藤原良章先生という青学の教授が、「鎌倉の大手」は永福寺で考えるべし、二階堂から円海山ルートがそうではないかという記述で先のエッセイと結びついたのだった。そうして、港南台から円海山経由で鎌倉に向かうことに。港南台5丁目の交差点から消防署の脇の道から丘陵を登れば、港南台の街並みをすぐに見下ろせる。
■円海山へ
鎌倉方面 通信塔 古道のような形状
登って左手は団地の所有地のようで私有地立ち入り禁止の看板がある。少し登ると右手の景色が開けて谷の向こうに丘陵が見える。これからその丘陵を目指し、その先の鎌倉に向かうことになる。正面には電波塔が見える。円海山頂上はFMの電波基地や無線の中継地になっているのだ。左手は自動車で上がれる道もありサッカーの練習場が現れる場所もある。電波塔を過ぎるとより山の道らしくなる。ただ、急こう配はない。円海山も標高153mである。いっしんどう広場を右折、標識通りに鎌倉天園方面を目指す。
■整備されたトレッキングコース
猛暑の中のトレッキングではあるが、木陰が多く街場よりは涼しいだろう。もちろん体を動かしているので喉が渇きこまめに水分補給をする。リュックの中の500ミリのペットボトル2本では少々こころもとない感じだ。整備された道で高齢の方の散歩が多い。近所の人々だろうか、道端の木陰で立ち話に興じているおばさん達を何組か見かける。市民の森ではあるが、見方を変えると住宅地脇の公園でもある。時折右手に景色が開け、横浜の整然とした(開発された)住宅地が遠くまで見通せる。また、時折トレランをしている集団とすれ違う。脇によけると皆さん挨拶して通り過ぎるが、挨拶も息苦しそうである。よく見ると若い人は少なく、いい歳のトレランだ。
■台風被害か
道をふさぐ倒木 谷に落ちる倒木 倒木を切断して通路に
思いのほか倒木が多い。根こそぎ倒れているケースが多いのだが、観察すると土は浅く、岩の上に根をはっていてこの辺の木は倒れやすいようだ。去年の台風襲来の被害がまだ回復していないようだ。コロナで人員や予算が回らないのだろうか。確かに倒れた木を運ぶのは大変そうだ。道路部分だけ、木をを切断して人を通しているのには驚き。
■予定変更
鎌倉CC打ち下ろし
倒木の影響だろう、予定していた瑞泉寺方面への鎌倉天園ハイキングコースは閉鎖されていた。残念。永福寺からの古道はこちらの側のルートではないかと考えていたのだった。大平山頂上、つまり横浜市最高地点から冒頭の海街の景色を楽しむ。予備知識がなかったので感動した。やはり低山とはいえ、山に登れば良いことが待っているのだと実感する。改めて考えると今歩いてきた道は横浜と鎌倉の境界だ。尾根道という地勢もあるが、古道の法則に当てはまる。予定変更で覚園寺方面へ抜けることにして最頂部の尾根を進むと右手は鎌倉カントリークラブで、打ち下ろしのコースが気持ちよさそうだ。
■ワイルドな鎌倉の道
カントリーから先は登ってから下りになる。さっきまでの道より山道らしくなる。やはり今までは公園内の整備された道であったのだ。今回ミドルカットのトレッキングシューズを購入して大正解。しかし下りでは少々つま先が当たる感じで、もうワンサイズ大きめーにすれば良かったかとも思う。ちなみに今日は、先日の餅井坂登山?のすね痛で懲りて、モンベルの短パンに脛サポーターという出立だ。おかげで足は痛くならない。
山道(と言っていいと思う)が終わると、花と庚申塔が出迎えてくれた。こうした碑があるということは単なるレクレーション用のコースではなく、昔から使っていた道を現在はハイキングに利用して残っていると考えたほうが良いだろう。すぐに住宅街。こんな所にまでと思うが、趣向を凝らした家が並んでいる。駐車場に並ぶ車も外車が多い。面白いのは蕎麦屋をはじめ、普通の民家で飲食の店を併設しているケースが散見されることだ。最初からそのつもりだったのだろうか。今日は日曜にもかかわらず人はまばらだが、コロナと炎暑の影響で本来は相当に人通りがあるのかも知れない。何しろカンカン照り、覚園寺はパスして鎌倉宮経由で永福寺へ向かう。
■永福寺(跡) 平泉へと続く道は?
永福寺跡 裏山から
たまたまこの日の前週NHKBISプレミアムの磯田さんの番組で永福寺を取り上げていた。頼朝特集だったのだ。さぞかし訪れる人も多かろうとしっかりマスク用意してきていたのだが、人っ子ひとりいない。隣の高級(多分)テニスクラブではボールを打つ音が煩雑に聞こえるというのに。
さて、鎌倉街道である。現状では下道は朝比奈切通を利用した六浦へ抜けるルートを想定しているが、先の藤原先生の説はこれを覆すものである。端的に言えば、この道は東海道であり、下道は別にあり吾妻鏡に記載された「大手中路」がそれであり、これが表玄関に当たる道で頼朝隊はこの道で東山道に抜け、宇都宮方面から平泉に向かったというものである。これを裏づけるのが二階堂にあった釘貫役所の存在で、一種の関所のような存在だったらしい。藤原氏を滅ぼしたのは頼朝の私怨によるもので、このため頼朝は藤原氏の怨霊を恐れ、永福寺を建立した。それも京都の平等院にも匹敵するようなものを。あえて平泉の二階大堂を模したというのは藤原説である。疑問は永福寺は鎌倉の鬼門におかれているのだが道もあえて鬼門を想定して作られたのかということだ。現状で道は残っていないようだが、永福寺から大平山方面へ向かった道があったのだろう。台風の被害でわかったように、この辺の木々は倒れやすく800年を経ているわけで地勢の変化も当然にある。いずれにしても円海山方面ルートの道があったことは確かなようだ。
<ルート地図>