鎌倉街道上道裏返し 武蔵嵐山から西大塚1
2023年2月5日(日)JR武蔵浦和~北朝霞 東武東上線朝霞台駅~武蔵嵐山 以降徒歩 菅谷神社~平沢地区~班渓寺~大蔵館~笛吹峠 地図は末尾に掲載
■埼玉の小京都「武蔵嵐山」 菅谷神社から
何年か前に帰路で武蔵嵐山駅を利用したけれど余り記憶になかった。駅前に何もないのに驚いた。電車に乗り遅れて武蔵浦和で駅そばを食べておいて本当に良かった、駅から菅谷神社までコンビニの1件もないのだ。恐らくは車社会でコンビニは幹線道路沿いにあるのだろう。駅徒歩3分の小ぎれいな戸建が2600万円台だったのには驚き。菅谷神社からは古道筋で平沢地区へ向かう。菅谷地区は鎌倉殿の13人でも人気を博した畠山重忠が頼朝からこの地を賜り、菅谷神社もそれに合わせて建立された古社である。
■残る旧鎌倉街道跡
市街地化された中の古道筋を進み、国道254号線平沢交差点から北にしばらく歩くと国道に沿うように上り坂がある。板碑が並んでいるその少し先を右に曲がると旧鎌倉街道の跡がしっかりと残っている。今回裏返すことでこうした光景に出会えることは本当にうれしい。この先抜けることが出来るようだがそれは次回として、平沢交差点に戻る。
■平澤寺から槻川へ
平澤寺本堂 斜面に庚申塔 後ろが白山神社
国道から少し丘陵に入ると長閑な田園地帯が広がる。平澤寺はそんな丘陵の上に建立された、吾妻鏡にも記載のある古刹である。本堂は小さいが屋根の軒は大きく、組手などは丁寧な仕上げで田舎の寺としては立派だ。さらに登れば白山神社があり、こちらの建物は比較的新しいが立派で、社の脇には太田道灌の子である資康の歌会碑が立っている。斜面には庚申塔、馬頭観音等が集めておかれている。
右 赤井の井戸 谷戸 蓮沼
先を進むと右手にコンクリート造りの四阿の下に赤井の井戸がある。現在も使用されているようだ。この辺は山間に耕作地のある谷戸の地形になっていて既視感がある。そう小野路周辺の景色に似ているのだ。蓮沼を過ぎると上り坂。この辺りは旧道跡が見られるとのことであったが見つけられず。1か所はどうも太陽光パネルが設置されて分からなくなったようだ。
■木曽義仲の世界へ
ラベンダー畑 槻川河原のバーベキュー場 古道筋
県道173号線に出るとまもなく槻川を渡る。急に視界が開け東側には広大なラベンダー畑が広がる。槻川の河原も広く、有料のバーベキュー場になっている。その先を右手に曲がると古道筋で、街道の案内板があり、馬頭観音等がおかれている。この辺は木曽義仲が生まれ育った所なので、関連の案内標識も充実している。進めば旧道の証でもある五差路があり、角には地蔵堂があり周囲の木々は大きく気分が良い。修験の家跡が墓地になっていて、そこから県道に戻る。
■鎌形八幡から班渓寺へ
鎌形八幡は坂上田村麻呂が宇佐八幡を勧請したのが始まりとされ、本当なら8世紀終わりで平安初期になるので、まあ古社であるのは間違いない。義仲の子である義高が3歳の時に奉納したと刻まれた懸仏が保管されているので源氏との深い関係も間違いない。でも先の修験の家の人が建立したとされる「木曽義仲産湯の清水」は戦前まで県の指定史跡だったものが、戦後解除されている。これは今回偽でもいいのでと、白い大きな犬に吠えられながら探してみたが見つからず、こちらも太陽光パネルに覆われている可能性が高かった。鳥居のすぐ先には都幾川が流れている。
鎌形八幡 鎌形八幡 都幾川 この辺で義仲は生まれたか? 班渓寺 山吹姫(義高母)の墓
班渓寺に向かう。途中のあたりに義仲が生まれた館があったとの伝承がある。班渓寺正面にも「木曽義仲公誕生之地」の碑が堂々と建っているが、大蔵館が生誕地との説も強い。この寺は義仲の子である義高が、義仲の死後に頼朝の命で暗殺され、母である山吹姫(妙虎大師)が供養のため建立したものとされています。義高は頼朝の娘である大姫の許嫁であった訳で、その後に大姫が精神的に不調になったりという伝えもあり、この寺は是非に訪れたかった場所であった。
■大蔵館へ
大蔵館手前の古道筋 大蔵館 奥が義賢の墓
都幾川を渡り東に向かって大蔵館を目指す。2キロくらいはあるだろうか。北は広大な農地が続く。古道筋かどうかは不明だが天気も良いし気分の良い道である。蝋梅の匂いも香しい。やがて古道筋が現れて少し登れば大蔵館だ。主は義仲の父である源義賢であるが、源氏同士の争いで甥の義平に討たれてしまう。その際に駒王丸(義仲)を連れ出して助けたのが畠山重忠の父重能で、木曽に逃したので木曽義仲となった。今回義賢の墓も訪れることができた。個人の敷地内で道路から距離があるため、地図だと裏側の道路からの方が近い表示でさんざん迷ってしまった。
■笛吹峠を越える
古道跡は工事道路に 笛吹峠へ 笛吹峠の碑
前回は自転車で越えた笛吹峠。今回徒歩なので街道跡の探索も楽しみにしていたが、らしき所はなんと川の護岸工事のために工事用道路として使われていた。もともとが道の訳だから、間違った使い方とはいえないところが辛い。消えるよりはいいだろう。ここまでだいぶ時間を要してしまい、飲まず食わずの旅になってしまった。景色を楽しみながらも先を急ぐこととする。窯業が盛んだった須江は寄れず。
■今回の経路