鎌倉街道上道裏返し 山名から吉井経由鮎川へ+上杉街道「平井城」から神流川へ かつ古代東国仏教を探る
2023年8月11日 浦和駅から倉賀野駅へ輪行~山名古墳~鏑川沿い古道筋~多胡碑~戻って吉井(吉良の里)~緑埜~鮎川~平井城~少し戻って東平井の鎌倉街道筋~矢場池~保美~清水家~浄法寺(緑野寺)~藤岡市街~新町駅から浦和駅へ輪行
■倉賀野駅から自転車で山名へ
裏返しの旅についてはこれ迄徒歩で行ってきたが、何しろこの夏の暑さである。また、多胡碑も行くとなるとそれなりの距離になりそうなので、今回はダホン号(折り畳み自転車)を倉賀野まで輪行した。倉賀野には見たい大型古墳があるけれど、今回はパスをして烏川を渡る。新幹線の高架を潜ってしばらく行けば山名の町に出る。代わりといっては何だが、せっかくなので山名の古墳を見学する。思いのほか数があり、広々として気持ちいい。ポリテクセンターの先を左に入り、しばらくして民家の前の道を右手に進めば、多分これは古道筋と思われる。
■鏑川を渡り、古道筋で吉井方面へ
鏑川の橋を渡り農地を左に折れれば古道筋がある。少し登りの道はなかなか古道の風情を残している。登った上は農家の集落だろうか。鏑川から渡る別の道筋を探してみたが、薬師堂が見つかっただけで通り抜けは難しそうだった。幹線の先はかなりの登りになるが、古道筋のような道は見つけられず。酪農農家の敷地が広がっている。
吉良陣屋跡井戸 大ケヤキ
暑い中ダホン号を引いて登った先は吉井地区で、吉良上野介の領地だったようだが開発されていて工場が多く風情はない。申し訳なさそうに吉良家にまつわる井戸が残されているが・・・というところ。しかし、254号線を渡り、下ると昔ながらの道筋になり曲がり角には庚申塔も鎮座していて旅人を導いてくれる。関越を潜れば大聖峯寺の大ケヤキが迎えてくれる。住所は緑埜になる。平井小学校の手前で準幹線を渡り、そのまま田圃を突き進めば千部供養塔に出る。江戸時代の浅間の大爆発の際の被害者を供養したものだ。ここは今回2回目になる。そのまま鮎川にぶつかるのだが、渡れないので右折して橋のある方へ向かう。
■鮎川の町へ
鮎川 美国神社 鮎川 吉野家さん
美国神社に寄ったが、ここから鮎川沿いには出られず、戻って橋を渡り左折して鮎川の古い町に向かう。火の見櫓の前の家はもう商売はしていないが「吉野家」というらしい。この前の自販機で暑さをしのぐ。ベンチと日陰が用意されている。火の見櫓の左側の道を行くと鮎川にぶつかり、先の千部供養塔方面の対岸に出る。この辺が古道の渡河地点であっただろうか。
■上杉街道経由平井城へ
鮎川 平井城跡
写真の吉野家さんの後ろ側の道が本来の鎌倉街道筋であるが、今回は写真手前の道を進み、上杉街道を辿ることにする。春に神流町(新宿)から児玉町のルートは探索済である。まずは鮎川から平井城を目指す。平井城は1438年、関東管領上杉氏の築城とされる。永享の乱でも利用されたようだが、実は私の時代の教科書には永享の乱は記載されていない。工業団地を抜けて、少し渓谷の風情となった鮎川を渡って道は少し登りになる。鮎川が良い要害になって守りを固めた城であったのだろう。道路沿いには城の幟がはためき、町おこしをしているようだが人は余りいない。二の丸の表示は道路の反対側にありそれなりに大きな城だったと思うが、石垣とかは無いので見栄えはしない。第一隣が畜産農家で、臭いで長くは滞在できないのだ。早々に後にする。
■上杉街道(鎌倉街道)古道筋を神流川方面へ
円満寺山門 矢場池
先ほど鮎川を渡ったところに戻り、東平井方面へ。旧道筋だろう、円満寺の山門は立派で、その先には秋葉神社もある。円満寺は上杉家の寺で、江戸後期建立の行人塚から関東管領上杉憲房の墓碑が発見されているそうな(寺の説明書)。進めば庚申塔もあり、右折すべき場所を示してくれる。先の鮎川の吉野家さんの道筋に戻ったことになる。予定では森にぶつかり、そこを左折して矢場池に出る予定であったが、その道は倒木で進めず、少し戻って普通の道路で矢場池の脇に出た。基本は農業用水用の池で、この辺りは道路の下に水が流れる音がよく聞かれる。この先は整備された工業団地になる。抜けて三名川を渡る予定であったが、この辺一帯はメガソーラーとゴルフ場で、三名川の小さな橋はガードが降りて渡れないようになっていた、川沿いもチャレンジしてみたが途中で行き止まり。すごすごと引き返して準幹線の橋で川を渡った。
稲荷神社 清水家
トンネルを抜けると田圃が広がる。すぐに左折して稲荷神社前を進む。この田圃を渡る風の涼しいこと、実に気持ちが良い。もちろん太陽はヘルメットを照らし暑いのだが。県道に出て、渡って神流川方面に進む。清水家という大きな家がある。この家の門の前が鎌倉街道(上杉街道)であったことは文献でも確認されているとのこと。この辺りが神流川の渡河地点であったとも思われ、行き止まりではあったが、渡河方面かと思われるような道も残っていた。
■東国天台宗の礎「浄法寺(緑野寺)」へ
最澄像 緑野寺の扁額
神流川を渡れば「伝緑野寺跡」方面になるのだが、渡らない藤岡側に「緑野寺」の扁額を有する浄法寺がある。この辺一帯の住所も浄法寺になる。最澄の大きな黄金の像には驚くが、不思議とけばけばしさはなく上品な面持ちだ。817年に東国巡錫で緑野寺を訪れているのは史実である。この寺で一切経の写経が行われ、天台宗の礎となっていたことは特筆に値するが、あまり知られていない。
■多胡碑訪問
いしぶみの里公園 多胡碑
ルートから少し外れるので最後に紹介となる。上野三碑の多古碑である。上信電鉄の車両にもプリントされており、山名の辺りも三碑の幟が道端ではためいていて、町おこしに利用されているのが分かる。多胡碑は資料館と公園の併設で特に力が入れられている。碑は和同4年(711年)上野の三郡から300戸を分けて多胡郡をつくり、羊が支配しなさいということを記念して作成されたもの。三郡の中には緑野郡が含まれている。また命令した側に「藤原不比等」の名も見られる。重要なことは石碑は半島系の文化であり、この地域は渡来人が多く様々な技術の先進地帯であったと思われること。特に、緑野寺の写経には大量の和紙が必要で、渡来人の技術と富が背景に背景にあったと考えられる。引き続き下野の薬師寺や大慈寺等も訪問の対象として東国の仏教の波及の様子等を把握していきたい。
■経路・地図