鎌倉街道上道裏返し スピンオフ「東国の仏教を訪ねる」2023・9・3
浦和駅から輪行、8:19快速ラビット→9:14自治医大前 龍興寺~下野薬師寺跡~孝謙天皇神社
■世の中知らないことだらけ
栃木に薬師寺だって?そんなのあったっけ。還暦を過ぎて早や一年半、しかし知らないことは多すぎるのだ。覚えたこともすぐに忘れてしまうからなおさらである。しかし下野薬師寺を知らなかった、というより知りえなかったことには理由があった。発掘が進み「薬師寺」という名を復古したのは6年前、2017年のことだったのである。天武天皇が妻である推古天皇の体調回復を願って薬師寺建立の勅命を出したのが680年。奈良に創建され、ここ下野では7世紀の末に建立された。川原寺の軒先瓦と形式が同じなので発掘で年代は確定されている。その後寂れて、室町期に足利氏の命で安国寺とされ、6年前までここは安国寺であったわけである。なお、鑑真がようやく日本にたどり着いて、755年に東大寺に戒壇が設立されたのに合わせて、761年にここ下野薬師寺にも戒壇が設立されたという。日本三戒壇で、この他は九州の筑紫寺のみということになる。
■これも信じられない
さて、薬師寺について調べると770年に道鏡が別当にとある。あの日本三大悪人の道鏡だ。2年後に亡くなり、別院に塚があるという。俄かには信じがたいので、まず道鏡の塚の確認に別院の「龍興寺」に向かう。龍興寺の本堂は立派だが比較的新しい。自治医大の慰霊堂があるのが面白い。道鏡の塚は元々の古墳を目印に造られ、奈良時代の石室が確認されている。墳丘は巨大な樹木に覆われていて永い時の流れを感じさせるものだ。お寺の案内看板が充実しているが、その中で目を引くものがあった。「戒壇」は(薬師寺ではなく)こちらに設けられたとの説も根強いとの記述だ。
■鑑真和尚碑
菩提樹
何といってもこの寺の創建は鑑真とされる。墓地の隅にひっそりと鑑真和尚碑があるが、これは鑑真をしたった弟子たちが建立したものとされて いる。如宝(鑑真と一緒に来日し、日本で正式に僧侶となる)、日光開山の勝道、のちに空海に帰依する恵雲、如意とそうそうたるメンバーである。立証はされていないようだが、永井路子は如宝が鑑真の命を受けて下野に戒壇を設置したものと小説「氷輪」で推定している。そうするとこの碑が、この寺にあることの意義は大きいものと考えられる。なお、戒壇設置後の約11年後に道鏡はこの寺に一般人の扱いで(法王だったわけだが)葬られた。ちなみに820年に空海がこの寺に3か月程滞在して如意、恵雲に密教を授けた。そのためこの寺は真言宗となっている。
■薬師寺八幡経由で下野薬師寺へ
875年創建 建物は1662年再建
。龍興寺から薬師寺に向かう。墓地脇の古い道がサイクリングロード表示で、薬師寺八幡経由とした。神木が立派だ。
■下野薬師寺跡
復元回廊 塔(再建)跡 五重の塔と考えられる
薬師寺といっても「跡」なので古い建物があるわけではない。ただ8世紀中ごろには法隆寺や四天王寺と同等の墾田500町が認められていただけのことはある広大さだ。敷地に往古の回廊の一部が復元され、塔の跡で往時を想像することができる。さすがに今時で、VRスポットというものがあり、スマホで復元画像が位置にあわせて観られるようになっているが、日光を浴びて風を感じている方が「跡」らしくて良いような気がした。FBやインスタ映えはしないけど。
唯一少し古い建物が六角堂だ。江戸末期に戒壇の伝承地に建立されたものとされているが、発掘では西基壇跡であることが確認されている。ということで、実は薬師寺の敷地内では戒壇がどこに設置されていたのか確定されていない。先の龍興寺に実は戒壇があったとされるのもうなずかれる。薬師寺創建から戒壇設置まで6~70年位の月日は経ているわけで、回廊も完成しているだろうし、その中に新たに戒壇を設置するのは難しかったとも考えられる。
現在の山門 三味場
現在の寺の山門には「下野薬師寺」と「旧安国寺」の銘板がかかっている。後で思い出して読み返したのだが、ここは紀行作家の宮脇俊三さんが訪れて、住職と会話を交わした記述がある。道鏡の話を持ち出したら「あれは別院」とにべも無かったという話で、あまり良い印象は無かったようである。道鏡の東大寺でのお経の貸し出し記録が残っていて、少なくとも勉強熱心な僧であったことは判明しているが、古刹の住職でも「巨根」といった伝説にまどわされるのであろうか。三昧場は薬師寺の僧侶が身を清めたといわれる場所で、中禅寺湖と地底でつながっているとか、いないとか。
■孝謙天皇神社
またも道鏡関連である。ここで孝謙天皇神社と聞いたら眉唾ものなのは間違いない。場所も隣の駅だし。でもやっぱり行ってみたいではないですか。行ってみると由来書きには大きな間違い。道鏡は孝謙(称徳)天皇崩御後に、後ろ盾が無くなり左遷でこの地に配流されたわけだが、由来書きでは「配流された道鏡を憐れんで、何と孝謙天皇がこの地にまいり、病没」とある。では全く根拠のない神社かというとそうでもなく、天皇の女官二人もここに配流され塚もあったとの記述がある。孝謙天皇の舎利があったかも何とも言えないが、さすがに元法王にはお世話係をつけたというのは十分にありえるだろう。この神社の先は姿川なので、川沿いに下野国分寺跡に向かうこととした。