鎌倉街道上道裏返し スピンオフ「円仁慈覚大師の面影を追って」
2023・10・08 JR]中浦和~久喜・東武線乗換~館林・東武佐野線~葛生・・徒歩・・大慈寺~村檜神社~入船町小野寺の田園~桜峠~清水寺・東山道経由・JR大平下駅~小山~中浦和
■大慈寺のライシャワー碑
後に大慈寺第4代住職となる円仁が、遣唐使(最終)の留学生として43歳の時に唐に渡るものの、天台宗発祥の天台山に行く許可がとれず、その後自力で旅を続けることになりました。期間は何と足掛け9年。その際の日記が「入唐求法巡礼行記」で、皇帝武宗による仏教弾圧も記述された日本人初の本格的旅行記とも言われ、これを英訳して世界に紹介したのがライシャワー。世界三大旅行記とされるようになりました。正面のレリーフは元駐米大使のライシャワーのもので、後日大慈寺にも訪れられ、碑が建った次第。ハーバードの東洋文化の先生でしたが、当時の漢文を英訳できるその能力には驚くばかり。
■まずは「テツ」で大慈寺へ
館林から東武佐野線で終点葛生まで。単線のいわゆる盲腸線ではあるが、途中両毛線の佐野駅と乗換ができるので2両編成ということもあり乗車率はそれなりにある。ホームは1番線で、本線上りの2番線の隅にある。ローカル線によくあるかたちだ。途中佐野市駅と佐野駅があるので間違えないようにしつこくアナウンスされている。葛生駅は広々としたといえばなんだが、少し荒涼とした風景だ。以前は石灰石を運ぶ拠点だった名残のようである。大慈寺へは県道の峠道を歩いて5Kちょっとになる。
■大慈寺について
円仁堂
鎌倉街道を散策する中で緑野寺跡を知り、自分の中で始まった古代東国の仏教への興味であるが、やはりこの大慈寺が東国の仏教、特に天台宗発信の本拠地となろう。なにしろ住職広智の弟子である円仁が第3代天台座主になったのを筆頭に、以降安恵、円珍、惟首、猷憲と天台宗第7代座主までがここの寺の出身ということになるからだ。ちなみに2代目は緑野寺系の円澄である。鑑真の日本人一番弟子といわれる道忠が一切経を持って生まれた地の東国に戻ったことと、上野と下野の一帯は渡来人がが多く仏教を受け入れる下地があり、かつ和紙をはじめとする写経によりお経を作成する技術に恵まれていたのが要因と考えられる。緑野寺とここ大慈寺も東山道があり交通の便も確保されていただろう。
■奥の院へ
奥の院
大慈寺は古刹で上記のように重要な歴史を有する寺ではあるが、残念ながら壮大な堂宇等はなく訪れる人も疎らだ。この辺はお金持ちの京都の寺なんかと大きく違う。円仁堂の奥の円仁が座禅を組んだという奥の院に登る。道は整備されているが、所々蜘蛛の巣がすごい。枯れ木で蜘蛛の巣を掃おうとしたら、木が折れてしまった。登れば修験者になったような気分ではある。本来は背景となる諏訪山は木々で全貌が見えず、景色が抜ける東北自動車道の方を眺めた。
■隣接する式内社の村檜神社
左の狛犬 右の狛犬
大慈寺に隣接して式内社である村檜神社がある。創建が大化2年と伝わる古社で下野の三之宮でもある。木々は樹齢千年を超えるものも多いとのことで神奈備た雰囲気はある。階段を登り、神門をくぐれば少々漫画的な狛犬が迎えてくれる。年代は不明。
神社の屋根は檜の皮で葺かれていてる。建物も室町後期のもので国の重要文化財となっている。ただ正面からだと少々修復の必要性を感じる。大慈寺とセットで丁度良い感じである。観光案内、道路案内等は村檜神社がメインになっているのはしょうがないか。後背の山も登りたかったが「熊出没」の表示があり断念した。
■円仁の里へ
諏訪岳
東北自動車道をくぐると広々とした農地が広がる。後ろを振り返れば大慈寺の背景となる諏訪岳が全貌を表している。熊注意の看板がなければ登っていたかもしれない。景色は長閑だが、高速道路の音はそれなりにする。真っすぐな道を左折してゴルフ場の丘陵を抜けていく。曲がり角にはちやんと道標が立っていた。
真性院
小山を越えると丘陵に囲まれた平地に出る。途中の真性院は大慈寺の末寺といわれており、近年石塔から経筒(経はなし)が発見されている。円仁は794年生まれ。生家の壬生家は大慈寺の檀家で、父親は東山道三鴨の駅長だったというからかなり地位が高い。駅の位置はこの辺から両毛線岩舟駅の方に向かった新里地区という説が有力である。下野国府の手前の駅になる。恐らくは神童だったので、9歳から広智の元で修行し、15歳の時に比叡山に登り最澄の弟子になったものと考えられる。
円仁腰掛の石 円仁独鈷水(井戸)
円仁は地元でも修行を行い、座禅をした腰掛石や、干ばつの際に杖を突いて水を出したという独鈷水という井戸が残っている。空海みたいだが、この方の密教は空海を超えているという説もある。いずれもリニューアルされているようだが、円仁記憶遺産としては重要だろう。
桜峠の道標 清水寺へ向かう 桜峠からの景色
独鈷水から少し道を戻り桜峠を目指す。比較的なだらかな丘陵が続いていたが、この峠道は思いのほか長く急だ。あまり人が歩いている気配がなく峠に近づくと道が荒れている。何とか登れば休憩所がある。ここから清水寺に下る。約1Kである。
清水寺からの景観 清水寺下の旧道
一気に下る。一人の山道は慎重になる。舗装の道に出ると目の前の景色が開けた。清水寺(セイスイジ)は時間がなく寄れずに、旧道を急ぐ。古道らしさが残る道だ。進むとオートキャンプ場等のレージャー施設の脇を抜けることになる。喉が渇いていたので自販機があって大変助かった。思えば葛生からここまでコンビニとは無縁だ。お昼は蕎麦屋があって助かった。
東山道の表示
道は緩い下りで足元も良く快適だ。妙に道幅が広いなと思っていたが、アスファルト道と交わるところに「東山道」の表示があった。なるほどで、ここは円仁も生家からも近いはずだから、きっと何かの折には歩かれた道なのだと感慨一入である。円仁は唐から戻った後に大慈寺の第4代住職となり、61歳で天台座主になる。その死後に師の最澄と共に朝廷から「大師」の名前をもらい、「慈覚大師」となった。