2024・10・14 鎌倉街道裏返し スピンオフ 東山道と上野国分寺
浦和から高崎線で輪行して高崎で乗り換えて信越本線で安中下車~新島襄実家、安中教会、植松・池尻遺跡跡~旧中山道で板鼻宿~上野国分寺~国分尼寺敷地~山王廃寺~新前橋駅から輪行して高崎駅から疲れたのでグリーンで浦和まで、ワンカップ大関の冷えたの美味い。(NEWDAYS高崎のクリーンヒット)
■城下町安中
安中が城下町であることを忘れていた。故安西水丸氏の城下町を逍遥した著作をたまたま読み返す機会があり思い出した次第である。行ってみたものの城跡のようなものは全くなく、小学校の入口に石碑が建立されているくらいだ。ただ、その辺りに城があったということは実に説得力のある地形で、南側の斜面下には碓氷川、北側は眼下に九十九川、遠くに浅間山を望む馬の背になっている。歴史をひもとけば彦根の井伊家の殿様が病弱を理由に、弟にその座を譲らされてここ安中の城主にされた経緯などはそれなりに興味を誘うが、今はただ遠くに山々を望む景色を楽しむばかりである。
観光的には城下町を思わせるものも「展示」されてはいるが、やはり新島襄のネームバリューが勝る。実家はこじんまりとしたもので、裏手のこんもりとした丘の上に碑文が立っているが、この丘は実は古墳で驚いた次第である。由来の安中教会は大きくはないがなかなか瀟洒な造りである。
■山田電機
何故山田電機か。実はこの場所は植松・池尻遺跡の発掘地で東山道の池尻駅であった可能性が高い。山田電機の大いなる協力のもと発掘が行われたが、その後埋め戻されて現在の店舗が建っている。だが現地には特に案内板等は無かった。残念だ。
■旧中山道で板鼻宿へ
東山道があればその発展形といっていいのだろうか、中山道も通っている。馬の背から川沿いに降りる旧道には集められたものだろうが庚申碑等が並んでいる。碓氷川沿いはサイクリングロードにもなっていて気持ちが良いが、堰の対岸の丘陵は東邦亜鉛の安中精練所があり、この風景の取り合わせはなかなかシュールだ。そのまま進めば中山道の宿場町だった板鼻だ。和宮の輿入れの際にこの宿に泊まったので有名だ。その資料館は保存状態がいまひとつだったが、どっこいこの宿には板鼻堰用水路がある。いまだに住民の方々が用水の水を家々の中に引いて利用しているのがわかる。
■鎌倉街道跡
東山道、中山道と説明したが、実は鎌倉街道の跡も少したどれる。中山道の北側の山手をはしっている。
■上野国分寺へ
板鼻からは丘陵を少し登り高崎方面へ。目指すは上野国分寺。なかなかの規模の国分寺跡(講堂、七重の塔跡)がしっかり残っており貴重である。下野国分寺に勝るとも劣らない。男体山開山の勝道上人が日光から降りたのちに上野国講師となり(795年)ここの上野国分寺に滞在したとされる。セットになる国分尼寺はかなり以前から位置は特定されているが、用地買収が進んでいないため史跡としての開示はできていない。また、国分寺と尼寺の間には関越自動車道が思い切り走っているが、群馬県は寝耳に水だったようで道路公団と相当もめたようだ。国分寺東門と尼寺西門をつなぐ古道跡が残っているが、もちろん関越道の下をくぐっていくことになった。
■山王廃寺
尼寺から北西に少し離れたところに位置する。周囲は豪農の家が点在する。廃寺なので写真映えするような景色は無い。しかし塔芯柱の根巻石はなにげに国の重文だ。歴史的には極めて古い寺院であり、上野三碑のうち一番古い(681年)山之上碑は放光寺の僧、長利が母のために建てた旨刻まれているが、放光寺は山王廃寺の瓦にその名が刻まれており同一の寺であることが判明している。長利は有力豪族の子孫であり、この寺は当時の東国の大寺院であったことになる。 ここからは新前橋駅に向かい、輪行で帰路についた。