■その1 巨大邸宅の謎
志木から所沢バイパスを新河岸川沿いにくぐると、左手の新河岸川は一段低くなって大きな林のようになっている。道路沿いには門がある。表札もあるが、それにしても個人の住宅としては大きい。後で川の反対側から確認してみたが、やはり樹木に覆われててその正体は判然としない。しょうがなく家で地図を見て確認したところ、その一画だけ「芝原」という小字で、その中に円を描くような道路上の表記。家一軒で小字?ネット検索しても謎は解明されないのであった。
■その2 どこで川を渡っていたのか 河原の碑は?
渡河想定地 土手から残る古い道筋
水子の高台へつづく もうひとつの渡河想定地
中世において新河岸側左岸に宿(志木)があり、道興准后の歌碑もあるわけだが、そこから水子地区に行くには新河岸川右岸に渡河しなくてはならない。どこで渡っていたのか川沿いを調査した。ひとつは歌碑のある千光寺のやや北側。明治初期の地図にらしき道筋があり、対岸にはその道筋が残っている。観音堂脇からバイパスをくぐると水子地区に登っていく坂道に通じる。もうひとつは先の巨大民家?らしき林の先。確かに左岸はフラットだが、対岸はこんもりとした丘の形状で、直線で登ろうとすると崖だ。ただ否定しようとしたら、土手に石碑が。読めないのが悔しいが、これは渡河地点と何か関係があるのだろうか。渡河後に右に折れて登っていく道はある。
■その3 寺下商店街の不思議
現在の木染橋辺も渡河地点の候補に挙げていたが、明治初期の地図には道らしきものはない。ところで橋を渡って右岸へ出ると、右手の道路入り口に大きなアーチがかかっている。「寺下商店街」の表示。その気になれば電飾も点くようだ。こんな所にと思い、試しにくぐってみればそこそこ広い真っすぐな道。しかし一般の住宅が多く、店もあるにはあるが商店街の雰囲気はない。寺下というのは商店街の西側丘の上が大応寺だから
だろう。周りも住宅地で、住宅団地自体が寺下団地というようだ。団地を造る際に併せて作った商店街がさびれて、アーチだけが残ったのだろうか。それにしても団地規模の割に、商店街の通りが長いように思える。ちなみにこの団地の住所は「貝塚」である。
■その4 水子城は本当に存在したのか
観音頭 城想定地 左手が新河岸川
水子には城があったらしい。もちろん天守閣があるような城ではない。戦いのための陣地のようなものだろう。東を新河岸川、南が柳瀬川を見下ろす高台で周辺を見渡せる立地なので、戦国期であれば城のひとつも造りたくなる地勢なのは間違いない。さて、その高台には「城の下観音堂」がある。ここのご本尊は古い庚申塔で、周辺の家のお墓や地区の古い地蔵等が集められて保存されている。城の下だから、その上がありそうだが、前述のとおりここは高台でここより標高が著しく高い所はこの地区には見当たらない。いろいろな説の
中では新河岸川の西の崖の上が城だったという。大応寺と似たような立地になる。観音堂の周囲は畑が多いのだが、空が近いような、妙に心洗われる景色である。住宅地化の波は着々と押し寄せているが。
■その5 尾張藩の鷹狩
氷川神社 残る田園
貝塚公園の脇には古い氷川神社がり、その隣が今は民家ではあるが、江戸時代には尾張藩の鷹狩番所であったとのこと。神社裏は畑だが、今でも鷹狩ができそうな雰囲気。水子と尾張藩、さてどういったつながりか?
■その6 高台からの景色
この高台は数千年前(縄文時代)からあったわけで、その当時は目の前は海(江戸湾)。中世には目の前が新河岸川で、さらにその向こうは入間川。そして江戸以降は新河岸川には船が頻繁に行き交い、入間川は荒川に付け替えられている。そして今はその荒川の先にタワーマンションが林立している。この変遷もまた不思議かな。
■その7 どうして昭和まで縄文遺跡は発掘されなかったのか
貝塚公園の縄文遺跡は畑の中から見つかっている。水子は少なくとも1500年前には大応寺のような大きな寺院が築かれ、修験の十玉坊も一時期存在していたのだから、宗教施設があり、かつ軍事的な要所でもあったと考えられるので、人の往来は相当あったはずだ。古墳の存在が人々に気付かれなかったのは不思議である。何かあるよなと知っていても、特に文化財には関心がなく、昭和になるまで放っておかれたということなのだろうか。
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