引又河岸と引又街道
志木は新座郡の郡衙(県庁のようなもの)もあったのではないかと言われるように、古い歴史を持つが、江戸期には新河岸川の船便を利用した流通でも栄えた町である。引又河岸と呼ばれた荷揚げ場で、後背の街は引又宿と言われた。当然のように陸路も発達し、引又街道といわれ黒目川や白子川流域の低地と結ばれていた。この道は、道興准后の廻国雑記にも地名「浜崎」の記載もあるので、中世期から存在していたことになる。今でも、和光や白子宿近辺では古い町並みや、のどかな光景が広がる道筋だ。
なお、郡衙の位置は諸説あり、そもそも武蔵の国で場所が確定できているところは豊島郡衙(西ヶ原)くらいで埼玉ではまだない。邪馬台国のように素人でもあれやこれや論評できるところが郡衙の良い所である。また、志木の名称も明治7年に引又町と舘村が合併する際に、大宮と浦和のように名称でもめて「和名抄(中世の辞典のようなもの)」の志木郷から引用されてつけられたもので、志木郷と現在の志木の位置は異なり、志木郷は新倉辺りではないかと言われている。