鎌倉街道上道裏返し 八高線丹荘駅から金鑚神社経由上杉道で児玉駅へ

2023年4月9日(日)晴れ 丹荘駅~日丹線廃線跡~青柳古墳群~伝緑野寺跡・城戸野古墳群~神流川頭首工~金鑚神社・多宝塔・御嶽山登山~上杉道で羽根倉池~谷池~児玉市街~雉が岡城~児玉駅 18キロ位? 末尾に地図

金鑚神社 旧御鎮座地

■丹荘駅から日丹線廃線跡

倉賀野で高崎線から八高線に乗り換える。つい一番後ろに席を取ってしまう。まわりは運動着スタイルの女子高生でいっぱいだ。彼女らは藤岡で皆降りてしまう。それから気付いた。そう神流川を渡る八高線の単線の鉄橋がすてきなことを。以前に自転車で徘徊した際に渡れると勘違いして、後で道を大回りすることになった鉄橋だった。単線の鉄橋はすっとしていてとても潔い感じがする。写真は間に合わずに、先頭から取れたのは丹荘駅のホームである。残念。でも丹荘駅は新築したばかりのようで、こじまりとしていてかわいい。駅前には清潔な公衆トイレがあってうれしい。以前に丹荘駅と工場を結んでいた貨物線で、旅客も扱っていた日丹線の廃線跡をたどる。景色は広々としていて良い。

■古墳群と緑野寺伝承地

廃線脇には青柳古墳群がある。思いのほか大きく立派なものがいくつも連なる。さて、本日の目的のひとつは緑野寺(みどのじ)の跡地といわれる場所である。ここもまた城戸野古墳群の脇にある。にわかに信じがたいがここに鑑真の日本人一番弟子の道忠が寺を構え、一切経を備えていたというのだ。そして簡単に言うと一大写経センターになっていて、天台宗開祖最澄も東国巡錫でこの地を訪れているらしい。例えていえばお経はウィンドウズといったPCのOSのようなもので、それがここから発信されていたのである。都幾川の慈光寺にはここで写経されたと考えられる国宝のお経が残っている。また、ここの古墳を掘ると、縄文遺跡がでるそうで、神流川の水利を活かして太古から人が住み着き、古墳時代を超えて奈良時代にここにお寺が建てられたわけで、今でこそこんな田舎ではあるが、当時は栄えた地だったものと思われる。少し調べると天台宗の2~7台座主はこの辺の関東近辺のお坊さんで、この所は今後の調査課題とすることにしたい。いろいろ旅が出来そうである。

■神流川頭首工

先月に荒川で頭首工という言葉を知り、再び今月神流川で出会うことになった。取水堰と取水口からなる施設で、河川から水を取り入れて主に農業用水に利用している。この頭首工も埼玉北エリアの農業用水のかなりを賄っているらしい。関東平野は水の少ないエリアで農業用水をめぐってはこの地域でも群馬側とは過去に石の投げ合い等の激しい争いがあったとのことだ。なので1955年にこの施設は造られて歴史は古く、2008年に改修されて今の形になっている。上流では大きなダムも造られている。さらに上流は昔は雑誌旅の編集長である岡田喜秋に日本の秘境と書かれた位に田舎で、恐竜の骨格が発掘されたことが有名だ。ちなみにさらなる上流の山側に日航機事故の現場である御巣鷹山がある。なお、先の緑野寺は神流川の向こう岸の妙法寺に引き継がれたという話である。「妙法寺」自体が地名になっていて歴史を感じさせる。

■武蔵二の宮 金鑚神社へ

かなさな神社と読む。金沢文庫も駅名に惑わされてしまうが「かねさわ文庫」と読む。金に惑わされる日々である。武蔵二の宮だったため、住所はそのまま二の宮であり、こちらは大変覚えやすい。もちろん式内神社。日本武尊の東征云々の話は、まあいいでしょう。さて、お目当ては重要文化財の多宝塔である。1534年に阿保豪丹荘の豪族が寄進したもので年代がはっきりしている。豪族の名が駅名に残っているところがうれしい。高野山にある北条政子が寄進した金剛三昧院によく似ていて、宝塔に腰屋根を二重に付けたものだ。なかなか立派ではあるが、少々建物の維持管理に不安がある。やや荒れが目立ち、誰でも建物に触れることが出来る。少し引いて見るとなかなか優美である。

■ご神体である御嶽山へ登山

金鑚神社には本殿はない。後背の御嶽山(みたけやま)をご神体にしている。これは他には大神神社と諏訪神社だけに見られる形式で珍しい。という事で軽く標高343.4mに登山をする。途中で鏡岩という有名な岩があるのだが、特に光っているわけではない。その辺は結構な登りで感心している余裕もない。登れば途中の岩場からは360度のパノラマが眺望でき、石の神社もあってなかなかの登山気分を味わえる。綱を使って頂上に登るが、そこは林の中になる。帰りは緩やかな道から下る。途中で修験本山派法楽寺跡や沼があり良い雰囲気であった。寺は1280年開山で明治初期まで栄えたとの看板記載があったので、廃仏棄釈を機に起こった修験道弾圧にやられたものと思われる。

■下って上杉道の道筋へ

神社から金鑚大師のお寺に坂を下り、健康保養施設のグランドの脇を抜けて上杉道に出る。先の頭首工からこの辺につながっている古道筋だ。写真にはないが、先の御嶽山にあった城の支城跡の守神神社があり、恐らく街道筋を押さえていたのではないだろうか。丘陵沿いの高台の道を進み伊勢大神の所の準幹線を渡ると、未舗装の道が真っすぐに通っている。いかにも古道跡の雰囲気だ。そのまま進めないので小川を小さな鉄の橋で渡り、羽根倉池の南側の池沿いの通路を抜けて東側の古道筋へ。釣りをしている人々が多くいた。

道は高台の尾根筋で古道筋らしい。北側の児玉側が低くなっていて景観が良い。しばらく歩けばまた池。谷池と言うらしく、こちらは周囲が林になっていて風情があり、錦鯉を育てている旨の表示がある。そして何故かこんな所に美容学校があり、その右手が古道筋になって児玉の町方面に進める。十二社神社の先を右折すると女堀川の土手に出る。花が咲き乱れていて早春らしい光景だ。土手沿いを歩いて、東南に斜めに曲がる道を行くと児玉の町の市街地に入る。この辺は小ぎれいな家が多く、そんなに田舎とも思えず首都圏近郊の趣だ。

■児玉の町

歩いていて道の真ん中に大きな庚申塔がそびえているのに驚く。児玉の町の歴史を感じさせる。中心地には町内の祭り用の倉庫もいくつか見受けられる。今は本庄市と合併してしまったが、お寺や神社も多く、独特の地域文化を感じさせる町である。恐らくは養蚕で栄えた商業地で明治の時代には相当な資本の蓄積がされたものと思う。また、検校で国学者である塙保己一の出身地であることも付け加えたい。出生した家も郊外に残るが、町中に福祉施設に併設された記念館がある。どうして盲目なのに国学者になれたのか不思議であるが、本を読んでもらってその内容を一発で覚えられたようである。ちなみに川越にある埼玉県立の盲学校は「塙保己一学園」と名付けられている。

■雉岡城から児玉駅へ

最期に雉岡城に寄るが、大いに後悔することになる。せめてもう一週早く来ていればと。素晴らしい枝ぶりの桜の木々が花を落としたばかりの状態で出迎えてくれたのである。知らなかった。来年の3月の終わりにはまた訪れたいと心に決めた次第である。城は鎌倉時代の武士館で、山内上杉氏の居城として使われたようで、鎌倉街道上道と上杉道が交わる交通の要所であり、鉢形城の支城としても機能したようだ。児玉駅は新しくきれいだが、残念ながら八高線の駅でこれが児玉の町が大きくならなかった理由だろう。せめて東武があれば・・・。駅前の街区も整然として新しいけれど、お店や飲食店がなく自販機のスープで飢えを満たした。ただ、日曜夕方の八高線は混んでいて、ようやく座れた状態であった。

■経路地図

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