新秋津駅まで輪行
①熊野神社(久米川)~悲田処跡~東村山~府中街道~小平~玉川上水(鎌倉橋)~熊野神社(西恋ヶ窪)~伝鎌倉街道~分倍河原古戦場~②多摩川渡~関戸鎌倉街道~多摩ニュータウン~旧道~小野路
■悲田処の存在を知る
久米川の鎮守である熊野神社からスタート。新田貞義が後詰をおいた所で、参道が長く趣のある社である。元々は鎌倉街道に面していたらしいが、今は古道筋とは西武線で分断されている。一旦所沢側に戻り、西武新宿線の踏切を渡りすぐ左の細道を左折する。この辺が久米川宿であったらしい。徳蔵寺の線路側に小さな神社があるが、この辺が「悲田処」の跡地であるらしい。悲田処とは行き倒れの旅人等を収容した場所で日本の社会福祉の曙とも言える施設だ。当時は防人に徴収された場合、行きは連れていかれるが帰るのはどうぞご自由にというひどい話で、各所に行き倒れが見られたらしい。「国」はこのことを放置していたらしいが、心ある役人が自発的に「悲田処」を設けて旅人を救ったらしい。今は神社として残っている。一説によると八国山の麓にあったとも。
■行政の古道表示
東村山古道筋
再び左折して線路を渡り、右折する細道が古道筋になる。小さな社の存在が古道らしさを醸し出してくれるが、何より東村山市の「鎌倉街道」の表示が有難い。ここからは正福寺の国宝千体地蔵堂もすぐだ。円覚寺舎利殿とそっくりな建築様式で、屋根の反り方が美しいが、建築は相当な技術が必要と思われる。正直初めて見た時は「なんでこれが東村山に?」とも感じたが、知るとこの辺りは中々に歴史的に奥の深い場所である。
小平古道筋 玉川上水鎌倉橋から
東村山の駅からは現在の幹線である府中街道が鎌倉街道跡ということになる。八坂の交差点を過ぎ、ブリジストンの工場脇を通り、小平六小手前を左折する。テニスコートの南側の道が古道筋になる。そのまま青梅街道を越えると、今度は小平市の鎌倉街道の表示看板がある。何気ない住宅地の中の道だが「細く真っ直ぐ」なのが古道の証でもある。当時は移動はすべて歩きだった訳で、極力最短距離を目指していたわけだ。鍵の手に左に少し曲がり津田塾を右手に見て進む。やがて玉川上水と交差し、渡る橋の名前は「鎌倉橋」である。なるほど、納得だ。ふとユーミンの曲が思い出された。「夏の盛りの日もそこだけ涼しくて」なるほど今日のような夏の日のこうした場所のことだと。木陰で水分補給をしてしばし休憩した。
■畠山重忠伝説がうれしい
西国 熊野神社 東福寺
姿見の池 池周辺
しかしこの先は五日市街道で消滅。止むを得ず府中街道に戻り西国分寺方面へ。東恋ヶ窪5の交差点から先は、先程の鎌倉橋から直線にあたる元々の道筋のようで、西武国分寺線踏切手前を左手にそれると再び古道筋となり、左手には熊野神社。能舞台もある立派な神社だ。鎌倉街道筋は源氏の関係で八幡神社が多いが、この辺は何故か熊野神社だ。進んで右側に東福寺で、左手に曲がると姿見の池がある。この池には畠山重忠伝説が残る。昔この地は宿で美人の遊女がいて重忠の恋人になった。西国に旅立った重忠のことを思い続けていたが、恋敵の讒言で重忠の死を告げられ、世を儚んでこの池に身を投じてしまうという、いかに彼がもてたかという話である。池の周辺は湿地も含め緑が多く、この環境を残そうという国分寺市の姿勢が感じられる。
■保存された古道
再び府中街道に戻る。西国分寺で中央線を越え、泉町の交差点を右折して陸橋で武蔵野線を越える。線路側に戻ると伝鎌倉街道だ。往時の雰囲気を今に伝えてくれる。ここも実に涼しい。尼寺跡の先は東芝府中の広大な敷地なのでまたまた府中街道へ。少し忙しない。本当は国分寺跡にも寄りたいが先を急ぐのでまたにする。
■分倍河原古戦場跡
北府中の駅を過ぎ、東芝の南側から古道筋に戻る。直進すると府中四中に突き当たり、敷地をクランクして進むと分倍道で、今度は南武線を越える。光明寺坂を下り、中央高速を潜る先に分倍河原の古戦場跡がある。水の流れる立派な公園になっている。府中には一の宮である大国玉神社があり、国衙もおかれていた場所なので、古道もいろいろな道筋があるようだがやはり先を急ぐので、取り敢えずこの道を本道として先を進む。思えば学生時代は分倍河原で乗り換えをしていた時期もあったのだが、降車した事がなかった。今思うと勿体無いのだが、当時とは興味関心も異なるのだから止むなしか。
<経路地図>