狭山市駅まで輪行 ダホン 一部2017・8・2
①久米川宿~所沢~堀兼~入間川~女影
■所沢から消えた旧道
久米川宿から所沢までは旧道筋が残る。所沢も宿であったが、中世では久米川の方がはるかに栄えていたようで、所沢(野老沢)が栄えたのは秩父・飯能と江戸との中継点、および物資の交換所として江戸時代以降に栄えたようだ。ポイントは水で所沢には東川があり周辺の中では水が豊富だったからのようだ。街道沿いでかつ東川沿いの新光寺は源頼朝が昼食をとり、新田義貞が戦勝祈願をしている。神明社、薬王寺といった古い仏閣も東川沿いの低地に位置し、東川無しでは所沢の発展はなかったのだろう。 さて、所沢は高度経済成長期にスプロール化で一気に人口が増加し、はっきり言って道路等のインフラは後回し。結果周辺の交通渋滞が激しかった。では、古い道筋が残っているのかというとそうでもなく、新光寺から新所沢方面に道筋が少し残っている程度で、狭山までは古道らしい雰囲気を味わうことは出来ない。これは農業用地としてはお茶畑をはじめとして開発されたことと、入間基地や工場団地の存在があるだろう。水が少ないエリアで、かえって人の手による開発無しでは、土地の利用が進まなかったからではないだろうか。
■歌枕の世界
堀兼神社
堀兼の井 見史跡 七曲井
また、驚くべきことに中世より「水の無い場所」として都にも伝わり、「掘兼の井」は歌枕になっている。紀貫之、西行もこの歌枕で歌を詠み、枕草子にも記載がある。 ということで鎌倉街道からは逸れるが、堀兼神社を訪ねた。井戸は石炭の露天掘りのミニュチア版のような作りである。巨大なアリ地獄と言っても良い。まわりには巨木が聳え立っている。なお、枕詞の堀兼の井はこの神社のものを指すのではなく、この辺一帯にこうした井戸があったということであるようだ。不老川(としとらずがわ)沿いを入曽に向かった先にも同様な「七曲井」があり、こちらは県史跡になっている。
■新田義貞と入間川
徳林寺山門 八幡神社本殿
西武新宿線と平行に走る県道を狭山市駅に向かう。芳賀本では「入間川駅」で、駅名が変わっている。変えたのも道理で区画整理で、街自体もすっかり新しくなっている。鎌倉街道筋は何処という感じである。歴史上は「入間川」という名を残すべきで、何故かと言うと、ここは入間川を挟んだ軍事戦略上の最重要地であったからだ。ということで新田義貞に係る寺、神社はしっかり残っている。入間川合戦の際の宿泊地「徳林寺」、元弘の戦いで戦勝祈願をした八幡神社に詣でてみた。
■義高と大姫の悲恋
清水八幡 影隠地蔵
入間川
そしてもうひとつ訪れるべきは「清水八幡」で、ここは義仲の息子義高終焉の地である。義高は頼朝の娘である大姫の許嫁であったが、頼朝から命を狙われたことを知り故郷の大蔵へ逃れようとしたが、追われて入間川原で討たれたものである。この辺は永井路子の「北条政子」に詳しく記述されており、大姫と義高が仲睦まじく、この結末は涙を誘うものとなっている。ちなみに討った家来は、政子の命で討ち取られてしまう。この神社も政子が作らせたもので、ここに来て供養したとのことだ。なお、今でも義高終焉の地の看板こそ掲げられているが、国道沿いで騒音がひどく、境内はペンペン草が生えていて、もう少し何とかならないかと思う。ちなみに新田義貞関連の施設は皆なかなか立派である。 さて、入間川を本富士見橋で渡る。古道筋は「八丁の渡し」で、少し下流になり、先の徳林寺沿いの道を進んだ辺りとのこと。ということで、その対岸の辺りに向かう。 対岸からは幹線となっているが古道筋が残り影隠地蔵がある。先の義高が逃れるために隠れた地蔵ということだ。実際は供養の地蔵ということのようだが。また、近隣のバス停には霞が関という名も残り関所があったことをうかがわせ、坂道には「信濃坂」という表示があった。この道を何故か信濃街道とも言うらしい。
■女影へ ようやく古道らしく
女影へ
女影 霞野神社
この先は工業団地を抜け、右手に智光山公園、さらに圏央道をくぐるとゴルフ場だ。そして鎌倉街道という交差点を越えると周りが雑木林になり、突然に道が古道らしくなる。その先には小川が流れ、手前に鎌倉街道と表記された大きな碑がある。古道探索をしていると、こうした碑には本当に励まされる。周りが住宅地になっても道は旧道の趣を失わない。やがて右手に霞野神社が現れる。社は大きくないが、参道が長く古道筋らしい神社だ。裏手には女影が原古戦場跡の碑がある。神社の先は女影の交差点で、時計台が角に設置されていてシンボルになっている。残念なのが工事で道に歩道が整備され始めたこと。道の脇は土が盛り上がった形状で古道らしかったのだが、それが失われる。
時計台 合戦跡碑
<経路地図>