■500年以上の歴史をもつ地名「岩井」

保土ヶ谷駅西口から線路沿いに下り、最初の踏切を渡り、すぐに国道1号線を渡った先の細い道にはかなざわ道の表示がある。これが鎌倉街道下道で、ここからは急な登りになる。地図では「岩難坂」の表記があり、文字面の通りの道だ。この辺りが岩井町で道興准后が歌を詠んでいるので「いわい」の名がその頃からものと知れる。「草の枕なりける」との表記なので野宿をしたのだろうか。高い位と高齢にも関わらず、当時の旅が厳しいものであったことが知れる。この地は、御台所(政子)の井戸はあるものの、特にこれといった特徴のないこの場所で、人が綿々と生活を営み、土地名を継承してきたかと思うと感慨深い。また、駅近でありながら、この急峻な坂が存在したことが大規模開発を防ぎ地名が残った一因とも考えられる。御台所地蔵には石碑が集められ、道標でもある北向地蔵は地域の人々からも大切にされている。北向地蔵を右手に曲がり、高速狩場線の陸橋を渡ると眼下に住宅街が広がる。

■井土ヶ谷から大岡川脇を通って弘明寺へ

高速陸橋から階段を下って、古道の道筋が残る裏通りを歩くと、高架になっている井土ヶ谷の駅へ。井土ヶ谷小の脇を通り、準幹線にぶつかると道筋は消える。それで尼将軍の寺と言われる乗蓮寺に行くが、建物も新しく、幼稚園主体で特に見るべきものはなかった。岩井町もそうだが、この辺も政子の領地だったようだ。大岡川の段丘上の道は古道の道筋が残っている。川沿いから右手に進むとすぐに弘明寺だ。

■弘明寺

弘明寺は横浜市内最古の寺と言われている。古道は弘明寺山門と参道の間を横切る。参道は商店街になっていて、日曜ということもありコロナに関係なく人出はそれなりにある。弘明寺の裏は京急の弘明寺駅なので、そのせいもあるかも知れない。確認はできなかったが駅の周りは公園で、面白い街の配置になっている。

■餅井坂

さて、弘明寺から1.5キロほど古道筋を歩くと、餅井坂である。文字は擦れて読めないが石碑(道標)があり、行政の鎌倉街道の表示もある。ただ、この道筋では鎌倉街道の案内はこの表示だけであった。餅井坂のネーミングも古からのものである。道興は「行きつきてみれども見えぬ餅井坂 ただわらぐつに足を喰わせて」と詠んでいる。まあ名前が餅井坂なのに餅屋はないよと少しユーモアを交えて詠んだ歌のようだ。

それにしても思いのほか急な坂で驚いた。道興もそんな気持ちもあり歌を詠んだのだろうか。今まで鎌倉街道を散策してきたが、長さと傾斜ではなかなかの坂で、これを本道とするには少し疑問が残る。雨が降り始めて景色がかすんでしまったが、坂の上からはちょうど正面にランドマークタワーが見えて横浜らしい。新たに名前を付けると「ランド見坂」にでもなるのだろうか。マンションからの景色はよいだろう。

■南高校へ(上永谷方面)

道幅が急に狭くなるところがあり、この辺の雰囲気が芳賀先生の本の記述と合致する。少し古道らしい。しかし、少し歩けば現れるのはマンション群。近隣の問題も少なく、用地もまとまって取得できるケースが多いこうした坂の上のマンションは供給側の都合かとも思うが、人が住み始めてしまえばそれなりの街になってしまう。この先大久保でまた急坂になり、突き当りを右に曲がると南高校だ。古道は本来本郷台に向かうのだが、南高校から先は昭和の高度経済成長時代に山ごと削っているとのことで、この道筋はここまでとした。

■餅井坂手前の三叉路から光明寺へ

道標のある餅井坂手前に戻る。三叉路になっていて左手の道を進む。ここも古道筋なのだ。旧家が残り、庚申塔も道の傍らに保存されていて古道筋らしい。大岡川、日野川の段丘を光明寺まで目指す。ただ、途中の千住院はコロナで立ち入りお断りであったし(幼稚園併設)、芳賀本で取り上げられた青木台(港南)の景観も今はもうない。台地がそっくり所狭しの住宅街になっていた。横浜ははやり住宅地として人気が高いのだ。ただ写真のように青木台からの眺望は芳賀本通りではある。青木台からは急峻な階段を恐る恐る下だり、降りた所が福聚院である。ここも古刹のようだが趣はない。少し愚痴になってしまったが、光明寺近くの道沿いは、林を背景に大きな農家の家々が並び壮観であった。帰りはブルーライン港南中央駅から横浜経由で帰宅。久々の運動で脛が痛い。

■番外編

この写真がこの度の回遊のもう一つの目的でした。横浜市南区別所三丁目、この存在を以前から知ってどんなところなのか興味津々だったのです。自身の住所がさいたま市南区別所三丁目、横浜対さいたま対決というわけです。残念ながら同一番地はありませんでしたが。勝敗?それは住んでいる所が一番とお答えしておきましょう。

<経路地図>