2017・10・18 大門宿~畷橋・釣上~笹久保~岩槻~慈恩寺~西行見返りの松~幸手~権現堂堤~栗橋(静御前の墓) 輪行で帰宅                 2018・10・24 上記ルートで古河まで 輪行で帰宅    自転車:共にトレック

さいたまの桃源郷

浦和大門から日光御成街道で畷橋を渡り右折し釣上へ。途中右折して笹久保方面に。この辺は埼玉スタジアムの屋根が見え隠れし、浦和美園の駅も出来たことから住宅が建ち始めて市街化の波が押し寄せてきてはいるが、一歩田園の中に踏み入れればそこは桃源郷のようだ。柿の実が実り、コスモスが畑の前に咲き乱れ、その先は緑の林。時折道端から覗ける農家の家々は皆裕福そうで、ゆったりとした時間が流れている。勝軍寺の参道には庚申塔が立ち並び、道筋が古道であることを教えてくれる。隣は源ゆかりの八幡神社だ。こうした場所は何とか残って欲しいものである。

笹久保の交差点から岩槻方面へ進むと国道16号にぶつかる。信号を渡ると右側には庚申塔や馬頭観音が集められていて、その右側の細道が古道筋である。この道筋は岩槻の武家屋敷が建っていた通りで今でも落ち着いた雰囲気の住宅街になっている。城は残っていないが太田道灌が古河公方を睨み建てた城で、後には後北条氏の主要な城になっている。本丸という住所も見受けられる。人形店やお寺のある旧市街地を進み、東武線をくぐり元荒川を慈恩寺橋で渡る。日光御成街道である。ちなみに元荒川というくらいだから、こちらが本家本元の荒川で、熊谷から流れてきている。今の荒川は入間川であり、赤羽から先は人工の放水路である。

慈恩寺と三蔵法師

せっかくなので街道から少しはずれるが慈恩寺に寄る。最澄の弟子円仁が建立した天台宗の、埼玉では川越の喜多院とならぶ古刹である。上野の交差点を右折。行く途中にも庚申塔がみられる。山門を潜ると妙に境内が広く、小学校のグランドのようで少々寂しい。お寺も大きいが古く傷んでいる感があり、これは喜多院の勝ちであろう。ここに建てたのは中国の大慈恩寺周辺の風景と似ているからということのようだが、800年代前半にこのような寺が建てられたということは、当時からそれなりに人の行き来があったエリアだったのだろう。

戻ろうと思ったが、玄奘三蔵塔の案内が目に付く。何故ここで三蔵法師か?眉に唾を塗ってみる。しかし、山門からの案内看板が指す方向は、こんもりとした緑の山で風情があり思わず足を延ばした。田圃や畑の小道を抜け農村の家々の間を抜けていく。なんとここも桃源郷のような雰囲気である。いいぞ埼玉!看板の案内で左折し木々が覆いかぶさる道を抜けると玄奘三蔵塔が。石造りの十三重塔でなかなか立派なものだ。正直慈恩寺より整備されている。要はここに三蔵法師の骨が祀られているのだが、唐突で俄かには信じがたい話である。実は芳賀さんの「探索の旅」にはこの塔の案内はなく、予備知識なしで出会ってしまったのであった。 後日調べてみると、太平天国の乱で不明になっていた三蔵法師の頭蓋骨を、日本軍が中国侵略時代に南京で発見し、一部日本へ分骨したそうな。それを三蔵法師が建立した大慈恩寺にちなんで建てたこの慈恩寺に戦争中疎開させていたが、その後正式に奉安に最適とこの地が認定されたとのこと。なるほど本物である 。埼玉すごいぞ!

西行も旅した道

さて、再び杉並木も見られる日光御成街道を北進。途中右折し、東武動物公園の裏手を進み、東武伊勢崎線を渡り、古利根川を渡ります。なかなか良い雰囲気で街の中を流れ、住民の憩いの場にもなっている様子である。古利根川は元々の利根川で、昔は高野川と呼ばれていた。江戸時代に銚子に河口を付け替えられたわけで、今は吉川手前で中川に合流する。少々道に迷いながら永福寺にある「西行見返りの松」へ。松そのものは普通の松であるが、この松の前の道は鎌倉街道筋となる。古利根川から河岸段丘状に高台に通っている道で、なるほど水害には強いだろう。昔からの住んでいると思われる少し作りが古い建物や、広い敷地の新しい建物の家が並び、古道筋らしい雰囲気である。それにしても西行は2度も陸奥に出向いている。松を振り返って何を思ったことやら。 西行松の前をそのまま進むと八幡神社手前で日光御成街道に合流する。実に八幡神社が多い。そのまま幸手の繁華街を通ることになる。古道というより昭和の面影を偲ばせる落ち着いた商店街で、幸いにしてシャッター通りでは無い。それなりに機能している街と見受けられた。このまま残せば50年後は観光地になるかも知れない。正福寺を鍵の手に右に曲がり直進すると日光街道(国道4号)に吸収される。

桜は無くても権現堂堤

そのまま進むと右手には権現堂堤だ。立ち寄ってみる(2018年)。桜の名所ではあるが、秋なのでもちろん桜は木々の連なりのみだが、景観の良い所である。別に秋に来ても十分楽しめる。何故か山羊までいる。権現堂川となっているが、これは元々は利根川であろう。広大な緑の絨毯と、水辺の取り合わせは目に優しく風も涼やかだ。明治天皇もいらしたようで、国道4号の行幸橋で中川を渡る。

渡ってすぐ左手に降りる道が旧道だ。4号を右上手に見ながら栗橋の市街地まで進む。途中に道標、祠、旧家と古道の特徴満載の道筋で、トラックの音を別にすればかなり楽しめる。

静御前の墓へ

栗橋の街は寺社が多く、思いのほか落ち着いた街並みで道端に設置された幟からも、それを観光資源に町興しをしていることが見受けられる。その中核となるのが義経の愛妾静御前のお墓だ。鶴岡八幡宮で白拍子の舞を踊り、「しづやしづ・・・」と義経を慕う唄を歌い、頼朝を怒らせて政子がとりなした話は有名である。行ってみるとお墓の脇にはアニメ調の義経と静御前が描かれている。まあこれはこれで良いのだが。 実は私の地元(新潟県長岡市)の栃尾地区にも静御前の墓がある。山間の川と棚田を見下ろす高台にある。メインストリートの栗橋より、人の眼を逃れながら山沿いに義経を追ったが、やがて体が弱りひっそりと亡くなってしまった。そんなストーリーの方が彼女にはあうような気がするのだが。

<経路>