①二子新地~溝の口~宮崎台~鷺沼~有馬~あゆみが丘~中川~荏田宿~②荏田高校~川和~中山~中白根(東急ニュータウン)~白根神社~鶴ヶ峰  徒歩(横浜の丘陵は自転車では・・・)

岡本家は爆発だ

いきなり古道の話からはずれる。というのも私は岡本かの子の愛読者で、実家のあるこの辺のことは何度か文章で触れたことがあり、以前からぜひ一度ふらついてみたいという願望があったからだ。ということで二子新地の駅に到着し、いそいそと岡本太郎作の岡本かの子文学碑に向かう。駅には川崎市設置の文化遺産の案内があり、この文学碑や、実家大貫家の菩提寺の光明寺の案内も表示されている。HPを見ても川崎市教育委員会のものは中々要点がまとまっていて優秀な職員がいるのだと感じさせる。 多摩川沿いの二子神社の境内に文学碑はある。一目で岡本太郎作と分かるモニュメントである。昭和37年に作成されたモニュメントであるがいささかも古さを感じさせない。ちなみに同じ年齢になる私はだいぶ疲れてきている。 台座には太郎の銘が刻まれ、脇の碑は文章が亀井勝一郎で揮毫が川端康成と豪華であるが、実際に当人と関わりの深かったお二人でもある。思えば生田緑地に岡本太郎美術館があるのもこの母方の地縁のせいなのだろうか。 どうしても太郎が目立ってしまうが、母かの子は晩年のわずか2~3年で短編主体とはいえ数多くの佳作を生み出した才能ある小説家であった。父一平も今となっては目立たないが、当時は一世を風靡した新聞漫画家であり、下世話な話だがその稼ぎは凄かった。太郎のパリ留学の話で驚くのは、太郎が地元のパリの貧乏画家達によく奢ってやっていたことだ。つまり太郎は両親から潤沢な仕送りを受け、何不自由のない留学生活を私費で送っていたのである。両親もこの時にヨーロッパに外遊している。宵越しの金は持たない主義がこうしたことを可能にしたようだが、太郎という成果を上げたのはさすがだ。ちなみにこの夫婦、夫婦とかの子の愛人の3人で暮らしていたというから今の基準でも驚くばかりだ。岡本家の話は変な小説より面白い。この辺の事情を知るには瀬戸内寂聴の伝記小説「かの子撩乱」が秀逸でお勧めである。

光明寺を詣でる

さて、文学碑を二子の渡しの始まりとする。二子新地は地味なイメージであったが、旧道である大山街道沿いは結構お洒落なパテスリーやカフェがあり、お店が連なっている。ただ狭い道に交通量は多く、歩行者は道の端を注意しながら歩かなくてはいけない。一車線の一方通行にして舗道でも付けたら、しっとりとしたいい町になるのに少々勿体無い。これはこの辺が戦災で焼けなかったためでもあるらしい。 光明寺も古道筋沿いで趣のある寺だ。谷崎の府立一中(現日比谷高校)、一高の友人(谷崎が1年先輩)であったかの子の兄「大貫雪之助」の墓を詣でる。随分と立派だが後の人が建てたものではなく、帝大卒業後すぐに息子が早逝し、ショックを受けたかの子の父が悲哀の余り息子のためだけに立派墓を拵えたものだ。そう聞くと親の期待の程がわかる。かの子が小説を書くようになったのはこの兄の影響が大きかったと思われるが、この点からも残念である。なお、推測ではあるが光明寺斜め前のマンションが旧大貫家と思われる。谷崎も良く遊びに来ていたようだ。

「ハマショウ」の街

乗継でしか利用してなかった溝の口は歩いてみると意外や落ち着いた街であった。「川崎×南武線」イメージが自分の中で増殖していたらしい。どうしても工場やギャンブルといった先入観が強いエリアなのだ。大山街道を離れ、溝口神社から宗隆寺を抜けると緑も多い。寺は陶芸家で人間国宝の「濱田庄司」が眠っている。街道筋にも案内板があり、地域の誇りとなっているようだ。たまたまテレビ番組で氏の茶碗を扱っていたのを目にし、人間国宝後の茶碗は400万円を超えるという。 南武線踏切手前の線路沿いは昔ながらの商店、飲み屋が残り、入口には「ホッピー」の大きな看板があり、ここが抜け道にもなっているようだ。時間があれば・・・と思うが残念。(昼は開店していない様子。)

ひたすら歩く

高津区役所裏の登り尾根道は旧道の道筋。途中の子育て地蔵が旧道らしい。道筋は246で消滅。大型の歩道橋で梶ヶ谷交差点を渡る。この辺の大山街道はただの幹線なので、やや細めの側道を進むがこちらも特筆することはなく、宮崎台の駅方面へ。 宮崎双葉幼稚園前の道は旧道筋のようだが痕跡はない。それよりもこの先の地下を武蔵野線の貨物が走っているようで、辺りをウロウロしてみたがそれとわかるものは見られなかった。

マンション・戸建の実査

線路(東急)沿いを大きく下って宮前平駅前へ。駅前の高台にある八幡神社を登る。長い階段を含めて小ぎれいな神社であるが、前方は木々で眺望は無く、登った周辺は住宅街になっていて眺望も無く、なんのために登ったのか分らない。下りの階段は怖いくらいだ。

ロイヤルホームセンターの裏手の道から東急田園都市線の高架を潜る細道が旧道筋のようだ。ホームセンターはもうじき閉店する表示。さて、小台の登山の開始。これは自転車では苦しい。なにしろこの後すぐ下ってしまうわけだし。山に立派なマンションが林立している。駅徒歩表示は近いのだが、酔っぱらって帰るのは大変だろうし、80位まで生きてしまうと生活が大変そうだ。下ってすり鉢状の低地の小台公園で少し休んで幹線で鷺沼駅方面へ。みずほ銀行を左折すると驚きの下り坂が現れる。これは旧道筋のようだ。途中で鉄柱に「大山道」のシールが貼ってあり確信できた。奇特な人がいるものである。下りきると246が出現。右折して鷺沼2の交差点を渡り有馬の戸建住宅街の坂を登る。マンション、戸建と人気の田園都市線沿線の不動産の勉強になることなること。今更だが。

古道に出会う

トイレ(小)をもよおし、公園のトイレと思うが、住宅開発地の公園のせいかトイレが無い。結構大きな公園なのだが・・・。ここは我慢して先に進む。行政区を跨ぎ川崎市から横浜市にはいる。開発地が終了し、突如造園家さんが現れる。その正面右奥に緑が鬱蒼とする中に細道が走る。本日初めての「古道らしい」古道だ。左側は谷で少し開発されているが緑が多い。

血流れ坂を下る

鄙びた道を下ると、やや幅員が広がった道路と合流。住所表示は「あゆみが丘」と開発地の住所だが、道路は幅員が一定しない昔ながらの道だ。昔はこの辺は赤土の坂だったので「血流れ坂」と呼ばれたらしいが、そんな雰囲気はない。左手は造園屋さんで、今度は右手が谷になっているが、そちら側に新しくておしゃれな家が立ち並びここからの眺望がとても良い。下りきるとバイパスにぶつかる。脇にニトリがあったのでトイレ休憩。冷房が効いていてありがたい。外の気温もだいぶ上がっている。バイパスの先に先の下り路の続きがある。しっかりと青葉区と都筑区の境の道なので、法則で旧道筋と判断できる。 ブルーラインを潜ると左手は高台で住宅団地だが、崖に湧水が出ている。

荏田宿へ

そのまま進むと早淵川沿いに。鍛冶橋を渡ると荏田宿だ。JAに大きな「荏田宿」の看板がありそれと分かった次第。川と緑、保存された「庚申塔」もあり確かに旧宿の雰囲気が残る。

<経路>