中田~古河公方址~古河餃子~文学館~永井路子生家

利根川を渡る 茨城県古河市へ

田舎教師の中田へ

栗橋から日光街道、国道4号線の利根川橋で利根川を渡ると古河市だ。快晴の空を映して川の水が青く美しい。渡って左手に折れると昔宿場であった「中田」の街だ。ただの広い道路に建物が並ぶ何の変哲もない街並みであるが、かつてはここが旧日光街道であり、中田には遊郭もあって栄えていた。実際はもっと利根川縁であったようだが、堤防工事で跡形もない。 とは言え以前より訪れてみたかった場所である。田山花袋の「田舎教師」の主人公が学校のある羽生(弥勒、発戸の辺り)から、中田の遊郭に通う記述があるからだ。利根川沿いに出て歩いていく。10㌔は無いにしても8㌔位はありそうだから、片道2時間位はかかっただろう。元々貧乏なうえに、食べるものも食べず節約の上遊郭に通う訳だから、その大変さが現地に行けば増々切実なものに感じられる。結局若くして亡くなってしまう訳であるが。また、想像であるが今でも教師は夜の街のピンク系で遊ぶには気を使われるかもしれない。中田(古河)は川を挟んで茨城県である、わざわざ学校のある埼玉で無い所を選択したのかもしれない。(もしくは花袋がそうした話を取材したのか。) この主人公はモデルがいたため、この遊郭に通う表現については遺族等からいろいろ取沙汰されたようだが、事実はともかく「青春なんだからいいじゃないか」と言いたい。小説の中ではあこがれをいだく友人の妹は「階級的な問題(お金)」から、あこがれに終わってしまいそうであったし、若くして亡くなった事を思えば「こうした情熱が」が語られた方が読む側にとっても救いがあるような気がする。なおモデルになった青年の墓は羽生にあって以前自転車で訪ねた。

鎌倉街道の古道は利根川近くを進むようだが、ここでは中田の旧日光街道を行く。また墓の話になるが静御前の墓が栗橋にあったが、その寺は移転してこの中田の通り沿いにあるからだ。名前も変えて「光了寺」といい、後白河上皇が御前へ恩寵した「あまりりゅうの舞衣」があるという。これが物的証拠という訳で静御前の栗橋逝去説が唱えられているわけだ。ちょっと寄ったが中々立派な寺である。とは言え御前目的の見学者だろうか、本を片手にうろうろしているおじさん(自分もおじさんだが)がいたので、早々に退散した。

古河公方館址へ

しばらく進んで左折し、古河総合公園へ向かう。公園の中に「古河公方館址」があるからだ。 実は古河に来るのは2度目で、最初の時は自転車で渡良瀬貯水池を走ることを目的としていたのだが、恥ずかしながら当時は浅学にして鎌倉(古河)公方の存在を知らなかった。これは受験の社会で世界史を選択したせいで、日本史をろくろく勉強しなかったからであるが、非常識と言われれば黙って肯く他にない。しかし中学の社会科では鎌倉幕府からいきなり室町幕府に切り替わるように教えられ、首都も鎌倉から京都へということで、その後の関東情勢のことなど後北条氏等が出てくるまで全く触れられないので、それを言い分けとしたい。鎌倉公方は室町将軍の継承権を有する血筋の人であるが、そうした人を関東に配置する必要があり、それ故にいろいろな争いごとが絶えなかったのである。

御所沼

さてこれは紀行であった。公園の前の道は古道筋であるが、立派に拡幅整備されて市街の方に向かっている。整備された公園で駐車場も大きい。スポーツを含めて市民の憩いの場となっているようだ。その一画に公方館址がある。案内板に沿って行くと立派な茅葺の建物があり、一瞬これかと思うがこれは県文化財の古民家であった。足利成氏が享徳の乱で執事の上杉家等と対立し鎌倉から古河に移ったのが1455年なので、木造の建物が残っているはずも無くあるのは碑のみである。ただ、古民家も1674年築のものもあり、それなりに古い。また外堀の代りとしていた沼等はそのまま残り、地勢は当時とそんなに変わらないかも知れない。掃除のおじさんが「公方が逃げてきた」というように訪れていた人に説明していたがこれは少し違う。享徳の乱では足利成氏は勝利を続け、経済的な地盤があり周辺に支持者も多く、戦略的に古河に拠点を構えたというのが最近の説である。ちなみに私の高校時代の教科書には「享徳の乱」という言葉は載っていないようである。

古河餃子

さて、先を急がなくてはならない。古河の名物に俵型の餃子があるが、スマホで検索したらお昼は14時まで。後15分しかない。先の拡幅された道をあわててこぎ出す。少し登りだが頑張ってこぐ。2キロない位なので論理的には間に合うはずだが、何といっても初めて訪れる場所だ。飛ばす、飛ばす。古河の街は比較的新しい建物も多く小ぎれいだ。 何とか目的の「丸満餃子」に14時前に到着。席はまだ7割方埋まっている。案内されて一般的と思われる餃子定食を注文。いきなり水のお代りをお願いする。 さて判定。餃子の見かけは大きいが、中身はそれ程詰まっているわけでなく、食べるとふにゃっと潰れる感じ。八角が効いていて正直自分好みではない。ただ付いたミニサラダと浅糠漬けが美味い。特に糠漬けは絶品でお土産があったら買って帰ったと思う。地元で採れる野菜が美味しいのだろうと思う。お値段は874円で高くはないが、地方都市としてはそれなりの値段だろう。店の雰囲気は人気店だが、いばったところがなく良好。

文学館

さてお腹を満たしたところで次の目的地、作家永井路子の生家を訪ねることにした。餃子屋に向かう途中に、古河文学館、永井路子生家の看板を目にしていたのでそちらに戻る。ゆっくり自転車を走らせると餃子屋の前も昔からの通りらしいし、先の広い道と交わる角には立派な道標もある。 永井路子の代表作といえばもちろん「北条政子」になると思うが、鎌倉街道探索を行うようになってからは本当にお世話になっている。中世史は裏切りによる殺戮が多く、負けた側は全員自死等凄惨な話も多く歴史の教科書では興味を抱き難いのだが、彼女の小説を通して歴史に触れると興味が次から次へと湧いてくるのだ。改めて古河生まれで、鎌倉に住まわれていたという略歴を知ると、書くべく人が書いたという気がする。

さて、文学館は見つけたが永井路子の実家がなかなか見つからない。文学館は元家老の敷地跡らしい。なかなか良い雰囲気だ。文学館前で調べてみると生家は文学館の別館扱いになっており、それで表示がややこしくなっていたらしい。

永井路子生家

広い通りを餃子屋の方へ戻り左折。成る程この道は以前渡良瀬に向かった時の道である。そうして路子生家へ到着。通り沿いのまあまあの商家で、裏に回ると庭が広がっており女性が2名草刈りをしていた。実は正直言うと、年齢、古河から東京女子大に通い、作家になった経歴からもっと富豪の出ではないかと想像していたのだ。もちろん裕福な家であるのは間違いないが、本人も相当優秀であることが周りからも認められていたのだろうと思う。

街並

後はゆっくりポタリング。篆刻美術館を代表に古い洋風建築も残り、横道に入ると蔵造りの建物も多い。しっとりとした和風の雰囲気だ。楽しみながら駅へと向かった。

<ポタリング地図>