青山学院前~まい泉~鳩森八幡神社~道喪失(新宿御苑)~新宿御苑前駅~新宿文化センター裏~道喪失(戸山団地等)~西早稲田~面影橋~宿坂~雑司ヶ谷~明治通~滝野川~道喪失(自衛隊等)~清水坂~稲付城跡~赤羽宝幢院 自転車 トレック
とんかつ街道
西回りを笹塚まで自転車で走った後に、東回りルートで青山から赤羽を目指す。青学前から246を左折。所謂横丁であるが日本一おしゃれな横丁かもしれない。右折して表参道方面へ。地下鉄表参道駅の原宿側で表参道を渡る。左手角は知る人ぞ知る伊藤病院で甲状腺の病の権威である。家人もお世話になったが、表参道に入院するというので興味津々であった。ブランドショップ街に宿泊(入院)するというのはどういう事かと。一言でいうとミニマムスペースでの入院であった。恐らく特注かと思うが、ベッドから収納スペース、テレビが実にコンパクトに纏められたスステム家具のようになっており、通常の病院の3分の2位の面積で寝泊まりすることになる。まあ、甲状腺で重篤なケースは少ないので隣接のスタバなんかで息を抜けるという仕組みになっているので、それでバランスは取れているのだろう。 家人の見舞いの際にも訪ねたが、自身にとってはここから先の道は以前からトンカツ「まい泉」へ行く道である。まさかまい泉の前の道が鎌倉街道だったとは思いもしなかった。この日は時間の関係もありとんかつは食べずにスルーする。すこし残念。ちなみにまい泉は上野の井泉からの暖簾分け(正式ではないらしいが)で、かつサンドも上野が本家本元となる。
春の小川(渋谷川)の高台の道
春の小川で歌われたのは渋谷川である。表参道ヒルズの原宿側の裏道が川の跡で、とんかつ街道と平行に流れていたことになる。渋谷川は表参道から少し下っていくので、とんかつ街道はその高台にあることになる。川から見て高台に道を設けるのは、水害で通れなくなることを避ける古道の常識である。
クレーンが勢揃い
さて古道筋はキラー通りを渡り熊野神社脇の道を進む。その先の国学院高校脇の道が「勢揃い坂」である。源頼家が奥州に向かう際にここで軍勢を揃えたと言われている。今は2020オリンピックための国立競技場の建替えでクレーンが勢揃いしているのが目の前に見える。都営住宅にぶつかりキラー通り出る。昔だったらこの辺で渋谷川を渡っていたのだと思う。観音橋の交差点を左折し鳩の森八幡へ。この辺は聖輪寺、瑞円寺と古刹も多い。八幡は将棋会館が近く、将棋塚がある。高台からの景色が麗しい。ここから古道は本来は新宿御苑を抜けることになるがもちろん跡形も無い。地下鉄新宿御苑駅まで大きく迂回する。
新宿裏通り
新宿御苑の駅から鎌倉街道は続く。直ぐ側の大宗寺は新宿御苑を江戸の屋敷としていた高遠藩内藤家の菩提寺。裏通りを北上する。抜け弁天通りを渡って進むと都営戸山団地にぶつかる。抜弁天は勢揃い坂の源義家の宿営地である。戸山団地で古道筋は無くなるので迂回して学習院女子大の裏門前に出る。
江戸を感じさせる古道
ここから北上する細道は古道筋である。早稲田通りを渡り、新目白通りを越えると面影橋だ。この辺りは山吹の里と言われ太田道灌が狩りに訪れている。落語の「道灌」にもなっていて、「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」という余りにも有名な古歌にかけたものである。さらに進むと南蔵院。こちらは円朝作「怪談乳房榎」で有名で、江戸名所図会にも描かれている。 さらに進むと金乗院が左手に。こちらは由井正雪の乱で処刑された丸橋忠弥の墓がある。倶利加羅不動尊も面白い。そしてこの先は宿坂の登り。往時の雰囲気を感じさせてくれる道筋である。さらに進むと鬼子母神の表参道になる。雑司ヶ谷駅の踏切を渡り本来は東京音楽大への道が古道筋のようだが、道はそこで途切れるため鬼子母神の裏手から明治通りへ。
道なき道を行く
ここから先は古道筋はほぼ失われている。明治通りで池袋駅前を通り旧谷端川の所に「鎌倉橋」の表示があるのがわずかに救い。西巣鴨の交差点を渡り、左折して細道を北上して石神井川を渡る。川沿いには古刹金剛寺があるのでこの辺りが古道だったのは間違いないのだろう。頼朝がこの寺を訪れたとの伝聞もあり、広重が「王子瀧の川」で描いた岩橋弁天で有名である。 自衛隊の敷地で行き止まりになるので迂回して北側に回り細道から東十条駅前の道に出る。出る所には地蔵や富士塚があり、尾根道であるので古道筋ということがわかるが、今では普通の幹線でなおかつ拡幅工事中という状況である。しかし東十条という所は不思議な街でグルメの名店が多い。蕎麦にもつ焼き、東京三大どら焼きのひとつもここに店を構える。
稲付城と安岡章太郎
清水坂を下り赤羽駅前から京浜東北線および埼京線の高架を潜り、宝幢院に戻ると東回りルート完乗となる。 赤羽駅前には小高い丘の上に静勝寺(ジョウショウジ)がある。ここは太田道灌築城の稲付城跡である。赤羽周辺が軍事上の重要拠点であったことを示しているのだが、伝えたいのは違う話である。作家安岡章太郎氏がエッセイで書いていたのだが、氏はこのお寺に旧制中学時代の1934年から1年半ほど預けられ住んでいたのだという。実は当時のこのお寺の住職である英氏は安岡氏が通う市立一中(現九段高校)の国語の先生であり、成績不良の安岡氏は先生の監視下に置かれたという事情である。今では俄かに信じがたいが、エリート校とはいえ昔はこうしたことが良く行われていたようだ。当時何とはわからず見下ろしていた三業地や、寂しさに赤羽の街や荒川を彷徨った記述がなんとも言えず味わい深い話であった。
<経路>