赤羽岩淵宿~宝幢院~赤羽団地~前野町~中板橋~中野通~新井薬師~中野~鍋屋横丁~和田~南台(雑色)~笹塚 自転車 トレック

岩淵宿の迷宮

新河岸川沿いの道から岩淵の街に踏み込む。乾いた河原の空気とは少し違い、少し暗く湿った感じの空気だ。すぐ左手には八雲神社がある。道も細めで区画が整然としていない。一目で古い町だとわかる。路地の所々には小さな祠があり、富裕そうな家の一画には庚申塔が置かれている。街を散策すれば迷路のようで、方向が分らなくなる。大通りにでれば小山酒造。東京の酒造である。実際は南北線の駅がすぐそばに出来て相当便利なエリアになった。さて、この迷宮が何時まで残されるのだろうか。

スパイスの香りの板橋

宝幢院の前を通り、赤羽台の公団団地を抜ける。ここもそろそろ建替えを進めている。新しい高幅員の道路ではあるが善徳寺をはじめ創建の古い寺が通り沿いにあるので、昔からの道を広げたものと考えられる。開発の際の既往の道路の取り扱いについて調べてみたいものだ。前野町で細い道に変わるとSB食品のスパイス研究所がひっそりとあった。古道とは関係ないが良い匂いがする。富士街道から環状7号への工業高校沿いの道は古道筋の雰囲気がある。そのまま進めば石神井川を渡り中板橋の商店街になる。人通りも多く、車も通るので慎重に自転車をコントロールする。道沿いには轡(くつわ)神社があり、道端に馬頭観音が祀られていて古道筋らしさを感じさせてくれる。

水道タンク

川越街道を渡りしばらく進むと、道は中野通りと合流して道幅が広くなる。左手に給水塔を見ながら進む。この道は準幹線なのだろうが交通量はそれ程でもなく、自転車で走って爽快である。西武池袋線を踏切で越え、目白通りを越えると右手に給水塔がまた現れる。給水塔と言われるがバス停は水道タンク前だ。自分も子供の頃こうした施設は水道タンクと呼んでいたのでやはり水道タンクと呼ぶことにしたい。ただし、荒俣宏さんの著作(江戸の幽明)によると、都民は配水塔と呼んでいたらしい。最初の水道タンクが荒俣さんの通った板橋第七小学校から見えた配水塔の建て直したもののようだ。 ところで2番目の水道タンクであるが、せっかくなのでその雄姿を写真に収めようとしたのだが、近くによるとファインダー内にさっぱり収まらない。周りは公園になっているのだがどうしても良いアングルが見つからないのだ。諦めて先に進んだ次第である。

哲学堂公園から追い出されたこと

水道タンク前のローソンでパンを買ったので旧知の哲学堂公園で休憩しながら腹を満たすこととした。なんといってもこの公園の企画者であり東洋大学創設者の井上円了先生は私の高校の(旧制中学)の大先輩である。先生の哲学を公園で表現したものであるが、川も流れ子供が遊ぶにはなかなか素敵な公園でもある。自転車走行禁止の表示があったので、お行儀のよい私としては、きちんと公園の入口で自転車を降りて、自転車を引いて池の周囲のベンチに腰を下ろし、さて空腹を満たそうとした。天気も良く公園での食事には打って付けの日である。しかしである、突如警備員が近づいて来て「ここは自転車は禁止です。出てってください。」とのたまう。「乗ってないけど。」「出てください。」とにべもない。良くちょっとした権力を持つとやけに居丈高になる人がいるがそのタイプだ。ロシアのシベリア収容所なんかではさぞかし重宝されたことと思う。関わって良いことは無いので逃げるに限る。やれやれだ。

中野へ

妙正寺川を渡り、新井薬師へと進む。よく西新井大師と混同してしまう。こちらは規模は小さいが植栽等は凝っている。古道らしく薬師の先で直角に曲がる。鋭角に曲がるのは室町以降の道なのだそうだ。早稲田通を渡り細道を進む。静かで古道筋の雰囲気が残る。北野神社周辺は中野駅の近くとも思えない。「ここをマンションにしたら売れるのに。」と考える不動産屋は多いことだろう。私も不動産屋の端くれなので理屈はわかる。鑑定理論の土地の最有効利用とは最もかけ離れた使われ方かもしれない。線路の近くなると昭和の場末の飲食店街も残る。鑑定理論は居住者の精神への影響は考慮されていない。末永くこのままでありたいものだ。 線路を渡ると光景はうって変って近代的になる。右手が図書館で坂を下っていくと鍋屋横丁だ。中野通を渡り和田方面へ向かい、しばらく行くと救心製薬がありそこを左手に曲がる。地下鉄の車両基地があるので古道筋は消えているのだが、しばらく進むと多田神社がありこの道は古道筋となる。七五三で神社は賑わっていたので神社の写真は遠慮した。

「中野富士見町駅」があるのに「富士見町」が無い訳

この辺は昭和6年にこのエリアが東京市に編入される前年まで「雑色」という地名だった。それが編入に伴い「富士見町」という町名に一部変更され、その後現在の弥生町になったという経緯である。このため富士見町という町名は消えた。また、雑色という地名は武士に係る一定の職能集団の存在を前提とし、鎌倉街道とも関係が深い。やはりむやみに地名を変更すべきではない。また、多田神社周辺は昭和30年位までは周辺は田が多く「雑色田んぼ」という言葉もあったと聞く。

伊藤整宅

話は鎌倉街道からそれる。私が自転車に乗るようになったのは伊藤礼先生のエッセイに触発されてのことであるが、礼先生は作家伊藤整の息子である。昭和11年から18年にかけて伊藤整は千代田町から和田本町とこの辺りに借家住まいをしており、礼先生著作の「伊藤整氏奮闘の生涯」にその頃の光景が書かれている。少年が過ごすには牧歌的で楽しい所だったようだ。ちなみに千代田町は今の本町5丁目付近で、この辺のお祭りの幟には「千代田町」が表示されている。やはり地名はむやみに替えるものではない。

笹塚へ

玉川上水

多田神社から先は古道筋が消える。道が消えるにはいくつかパターンがあって、開発や区画整理がその代表だが南台や方南町でそうした大規模な工事が行われたとも思えない。この辺は住宅地であるし、道は入り組み整然としていない。笹塚まで右往左往して進まなくてはいけない。人が大々的に手を加えた土地はもう少し道が整然としている。 推測であるが「雑色田んぼ」であったところが、都市化で徐々に埋め立てられ宅地化されて、宅地が繋ぎ合わされた結果、現状の入り組んだ道が残ったということか。今後の宿題としたい。甲州街道を渡り玉川上水へ。西回りルートは本日ここまで。

<経路>