■志木の「宿」

堤防沿いの道を斜めに下る。元々この辺が羽根倉の渡しだったようだ。今日はまず志木の古い街を目指す。志木の歴史は古く、新羅 からの渡来人の地に定められ、武蔵国の新座郡(ニイクラグン)が置かれた事から始まる。郡衙(県庁のようなもの)は 志木に置かれたとも和光に置かれたとも言われている。このため早くから志木には「宿」が定められた。バス停の名に宿があり、 近くの道路沿いには庚申塔や馬頭観音が集められている場所がある。宗岡の宿である。

■道興准后歌碑

そしてこの地を訪れた道興准后が歌を詠み 廻国雑記に記されている。「むねおかといへる所をとおり侍(はべ)りけるに、夕の煙を見て、夕けぶり あらそう暮を見せてけり わが家々の宗岡の宿」 千光寺に歌碑がある。千光寺は941年創建の古刹であり、准后もここに泊まったのだろうか。 今でも鄙びた雰囲気の残るこの地ではあるが、大工事が行われている。富士見川越道路の延伸である。浦和所沢バイバスで合流して いたものがその先に延びるのだ。橋桁の位置から類推すると、調度千光寺と宿の間を貫くかたちだ。 入間郡側の富士見市方面に進む。道興は水子の地を訪れている。志木高校の野球グランドを回り込むように進むと調度市境に佃堤がある。 市の文化財でもあり、さすがに道路延伸もそこを避けるようだ。ただこの先の道は建設中の道路の下を潜るようになるだろう。 最もこの先のバイパスでは道路下の隧道を潜らなくてはならない。今度は2回繰り返すことになる。

■水子へ

バイパスを潜ると純農村風景になる。遠くまで田圃が広がっている。道沿いには立派な農家風の家が建ち並ぶ。この道は新河岸川 沿いの道なので、細道を左に折れて川沿いに出る。家々の裏手では様々な種類の野菜の畑や花畑があり、住まう人の生活の豊かさ が感じられる。対岸は森の緑に覆われ、晴天なので川沿いを散歩する人々も目に付く。上流側の高台には堂宇が聳えていて眩しい。 誘われるようにその地を目指す。木染橋を渡り坂道でギアを落として自転車をこぐ。登ると信号で台地に広々とした空間が広がり 右側は寺社の空間だ。先の堂宇は大応寺のもの。近づけば大きさにも驚くが、実にきれいだ。それもそのはずで2009年に建替 したばかり。しかし新しいが風格は失っていない。山門は1719年建立のものがそのまま残るが、新しい本堂と調和が取れている のが素晴らしい。創建は不明だが開祖没年が1548年なのでそれ以前。道興がこの辺りに足跡を残しているのが1486年前位なので 建立に何か関わっているかもしれない。ちなみに真言宗の同一宗派である。

■水子貝塚

参道を引き返すと、道路の向かい側は「水子貝塚公園」だ。貝塚と言っているが縄文の中期の遺跡ごと戦後に発掘されており、 それまでは普通の畑で利用されていたようだ。早い話が縄文期は東京湾がこの辺まで入り込んでいて、ここが武蔵野台地の東端 であったわけだ。海の向こうは大宮台地である。「水子」というとちょっとぎょっとする名前であるが、元来悪い意味は無く、水際 の地を表す言葉のようである。縄文のその地勢の状態が地名として今も残っているわけだから、やはり地名を残すのは大切である。 台地を下って柳瀬川対岸の志木を目指す。「高橋」という橋を渡るが、古くからある渡河地点のようだ。

■法幢寺

柏町2の信号をそのまま進み、突き当たって左折すると法幢寺の参道に。巨大な馬頭観音が道路沿いにある。そのまま真っ直ぐ進むと 引又街道方面だが、それはまた今度とし、法幢寺に立ち寄る。立派なのは家光から10石を拝領しているため。1334年創建だが 柏城落城後の1561年に今の場所に移転とのこと。

■柏の城(大石信濃守館)はたまた・・・

さて、その柏城であるが志木三小の所がその位置であった。ただ落城後は農地として使われていたようで、そのまま現代の住宅化 の波が押し寄せて発掘されないまま今に至っている。大石信濃守の館もこの場所で、道興准后もここを訪ねて庭先の高楼に登り、 遠くまで見渡せる風景を楽しんだとの記載がある。羽根倉橋から見えたような富士の光景も楽しまれたのであろうか。また芳賀先生 はここを新座郡の郡衙と推定している。とすれば、在原業平もこの地を訪れて、長者の娘とのラブロマンスが生まれたということに なる。本来はグランドを掘り返してみたい所だが、そうもいかないのだろう。ちなみに世の郡衙位置の定説は和光の花ノ木遺跡で、 これは出土品によるところが大きい。

■大塚十玉坊はどこか

館のあった大石氏の本拠は八王子で現志木街道は八王子街道とも言われていたので、話は繋がっていく。 道興准后がこの地に滞在していたのが大塚十玉坊である。道興准后は聖護院門跡(親と弟は関白)であるが、聖護院は熊野の修験道 の本拠地であり、東国に廻国して来たのも修験道の普及目的があったものと考えられている。十玉坊はこの辺りの拠点であったと 考えられ、他では狭山市笹井の篠井観音堂が有名である。しかしこの十玉坊の位置はどこなのか。この後は水子、清戸村芝山へと 場所が変遷し、最後に難波田に落ち着くわけだが、難波田以外はその位置は不確定だ。

とりあえず「大塚」を探してみることに。法幢寺参道前の馬頭観音沿いの道は大宮街道につながる奥州街道とも思われる古道である。 氷川神社前を通り、ユリノ木通りを渡ってマンションの右脇の道を進むと右手にお堂がある。特に古い訳でもないのだが案内板が あるので読んでみると千手院といい昔はもっと規模が大きかったようだ。そして大門は今の踏切の辺りと記載されている。なるほど そこが踏切であるのもそれなりに歴史があるのだと納得した次第である。

さて。踏切を渡ると通りには庚申塔を集めた社があり、もう 少し進めば地蔵がある。信号を見上げれば「大塚」の表示。今は幸町というが何とか地名は残っている。脇の地蔵も大塚地蔵という らしい。今は塚の山古墳が私有地の中にポツンとあるだけだが、昔は大塚古墳群といわれ、古墳が多くあったらしい。柳瀬川の段丘の 崖地なので地形的にもそれらしい。崖地は緑地帯として保存されている。つまりこの辺に大塚十玉坊があったらしいのだ。歴史も 古く、大石氏の館もそう遠くない。大八天神社がその場所かとも思ったが、古道からはかなり低地になるし、WEBで見かける幸町 3丁目でなく2丁目である。観音堂は4丁目なのでこれも違うのだろう。解答は無いままであるが、とりあえず道興准后の足跡は 辿れているのではないか。この件はまた次回に。