2024・03・17 邪馬台国推定地で卑弥呼に思いを巡らす
最終日は大神神社の大鳥居を右手に望みながら桜井市立埋蔵文化センターへ。こちらを見学後に徒歩で卑弥呼のお墓との説もある箸塚古墳経由で、邪馬台国推定地の纏向遺跡に向かった。もちろん諸説あるのだがその後JRに飛び乗りやはり卑弥呼の墓ではないかと言われる黒塚古墳へ。ここの資料館の模型は秀悦だった。そして頑張って歩いて鍵遺跡へ。弥生から古墳時代へと移行する時代の大規模集落で、やはり邪馬台国の推定地のひとつである。ここから纏向へ移転して邪馬台国となったとの学説もあるようだ。帰りは近鉄で再び大和八木に向かい、特急で名古屋へ、新幹線に乗り換えて帰宅となった。
■箸墓古墳
とにかく巨大な古墳で圧倒される。だから卑弥呼の墓とも言われるのだろう。景行天皇陵や崇神天皇陵が丘陵の際にあるのと異なり、ここは完全な平地である。
■纏向遺跡
実は期待して訪れたらただの野っ原だったというオチである。案内板とトイレはある。もう埋め戻してしまったのだろう。しかし、ここが現状で邪馬台国推定地候補NO.1であることは間違いない。
■黒塚古墳
箸墓と異なり、こじんまりとしているが資料館も併設されてかなり大切に取り扱われている。上にも登れるので上がってみれば大和三山のうち耳成山と畝傍山を遠望できる(写真は望遠での撮影)。また、先ほど歩いた箸墓古墳も見える。古墳を歩けるという事は、この古墳に関してはすべて埋蔵物が発掘されており、それらは近接する資料館に収められ、展示されている。鏡を含めて展示が立派なので桜井市の埋蔵物センターより見ごたえがある。まあ、センターはどちらかと言えば研究員がつまり扱う人間が充実しているので、劣っているわけではない。しかし、こんなレプリカのお墓を見せられると、ここが卑弥呼の墓のように思えるから不思議だ。確かに卑弥呼は日本書紀にも古事記にも出現しないわけで、ヤマト朝廷からしたら正統性を欠くと考えられているだろうから、あまり墓が大きいのも不自然のような気がする。
■鍵遺跡
纏向遺跡発掘前はここが邪馬台国の推定地NO.1であった。今でもその説は廃れているわけではない。ここが弥生時代の後期に大規模な稲作を中心とした集落を形成していたのは間違いがなく、学者によってはここから纏向に移転して邪馬台国になったという人もいる。また、あんな墓ばかりのエリアの中心に行政地を置くだろうかと疑問を呈する人もいる。訪れた感じでは、ここの広さはそれなりの説得力をもつと思う。